闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「統一病」につける藥

木村さんを自分の掲示板に呼込んでおきながら、ダブハンを使つて木村さんを罵倒し捲つたサイト制作者アレクセイ氏を俺が批判したらアレクセイが俺を掲示板荒し呼ばはりした例の「アレクセイ事件」の時、Ancient Libraryの何とかさん(名前わすれた)が辯護してくれたのだが、その後その何とかさんが俺を罵倒するに至つたのは俺がXHTMLに對して批判的で尚且つXHTMLを使はうとしなかつたからだが、俺は今でも自分のサイトでXHTMLを使はうと思はない。

アレクセイは自分のダブハンを「実験である」と主張し、「実験である」から何をやつても許されると主張した。別にアレクセイがホランドなる別人格を演じても、無害なら誰も何も言はないし、面白がる事だつて出來る。
ところが、アレクセイは、ホランドの名前で木村さんに言掛かりをつけ、アレクセイの名前で再び木村さんを非難した。これは許されない。當り前の話だが、アレクセイは當り前の話を當り前とは思はない。事件が起つたのはアレクセイが持つてゐる掲示板で、だから「俺の掲示板で俺が何をしても許されるに決つてゐる」とアレクセイは主張したのだが、しかし、「自分のサイト」「自分の掲示板」だからといつて、何をやつても良いとは言へない。アレクセイ理論が「正しい」ならば、本の中で何を言つてもそれは「俺の本の中の事だから」と云ふ事で全てが許される事になつてしまふ。誰も見ない日記で誰の惡口を書いても、書いた人は逮捕されない。けれども、他人の惡口を書いた本が本屋で賣られたならば、著者は逮捕される。「俺の本」でもそれが「公共の場」に出れば最早「俺」「俺」で話は濟まされない。そこで「実験」と云ふ原理を持出しても、話にならない。ところが、アレクセイは「実験」と言へば全ては通る、と信じてゐた。だからこそ、公共の場である掲示板で、ダブハンを使つて木村さんを誹謗して、愧ぢるところが無かつた訣だ。「実験」と云ふ「原理」でもつて全てを割切る事等出來はしない。「プライヴェートの場」と「公共の場」とで、話は異る。

XHTML原理主義者の何とかさんも、ウェブの文章は全て例外ナシにXHTMLであるべきだし、大體ウェブ標準を主導する側の人間は須らくXHTMLに移行すべきであると考へてゐた。けれども俺はさうは思はない。少くとも個人サイトで、靜的な記事を、わざわざ手書きでXHTMLで作つて、FTPで鯖に抛り込むなんて、そんな馬鹿な眞似はしてもしやうがないと思つてゐる。XMLでやるなら、文章を書いてもそれは手動で靜的なXHTMLの文書にマーク附けされるべきではない。文書を何らかのソフトウェアで鯖に抛り込み、そこでXMLの文書にする、その文書はリクエストに應じて鯖から適切な形で送り出される――そんな風に機械化されるべきである。人間は直接XML文書を弄るべきでない。XHTML文書も作るべきでない。もちろん、そこまで「やれ」と何とかさんは要求してゐた訣だが、俺には出來ないし、俺みたいな「出來ない」人間のためにHTMLは「ある」のだと俺は信じてゐる。だが、何とかさんは、何でもかんでもXMLの一本槍だ。俺はXHTMLとHTMLのどつちもあつて良いと考へてゐるのだが、それで怨まれるのは何か變だと思ふ。

茲からが本題。
國字問題の論爭で、我々は歴史的假名遣と「現代仮名遣」、正字と略字の「對立」を言ふ。「對立」と言ふと最う正字正かな派は正字正かなに、略字略かな派は略字略かなに、それぞれ固執してゐるかの如く言はれる事になる。「現代仮名遣」「常用漢字」を否定する人間は、何時如何なる場合にも例外ナシに「正しい表記」を使はねばならないと主張してゐて、そんな事は現實に無理だから正字正かな派の言ふ事は異常である――そんな風に極附けられる事がある。ところが、このやうな一本槍の論法は、俺は少くとも使つてゐない。
實際のところ、正字正かな派の主張は、「全てを正字正かなに」と云ふものではない。これは、「略字略かなでも良い」と云ふ事を意味するのか――するのである。なぜなら、正字正かな派の主張は、正字正かなを正しい表記として認め、その樣に待遇せよ、と云ふものだからだ。正字正かな派の不滿は、現代の日本人が略字略かなを「正しい表記」として扱つてゐる事、その唯一點にある。
本來、正字正かなが正しい表記である。これは誰が何と言はうと眞實である。言葉の正しさは社會における言葉の使はれ方によつて決る、と言はれればそれはその通りだが、しかし、歴史の觀點を缺いた社會性を根據にするなら、それは誤だ。書き言葉が比較的長期に亙つて存續する存在ならば、單純に共時的な觀點から扱ふよりは通時的な觀點から扱ふ方が正當である。
正しい表記であるからには、正字正かなが教育の場で行はれるべきである。もちろん、全ての日本人が正確に正字正かなを使ひこなせない事は、否定しない。けれども、それが何の問題なのか。正字正かな派の主張は、誤つてゐても通ずるならばそれはそれで良しとすべし、と云ふものである。かなづかひが間違つてゐても、それは訂正すべきだが、だからと言つて別に兒童・生徒を怒つて正確さを強要しないやうにすべきである。正しく書く能力を持たない生徒がゐれば、略式でも或程度書けてゐればそれで良しとする。
國語表記の教育は、正式の書き方を教へる、そして後に略式の書き方を教へる、と云ふものであるべきだ。出來る生徒はより高度に、出來なければ能力に應じてそれなりに――それは教育の正道だらう。ところが今の教育はをかしい。最初に目標を低く設定し、全ての生徒に一人の例外もなくその目標を完璧に達成させようとする。
漢字は略字體が「正しい」とされ、それは大變易しくなつたと國字改革の當事者と、その支持者は言ふ。けれども、教育の現場で、先生は生徒に漢字のテストをやらせる。生徒は滿點を必ずしもとれないのである。「略字でも書けない、ならば正字ではもつと書けない。だから略字で良いのだ」と略字派は言ふ。けれども、「正字で教へて、大體書けたらOKと看做す」と云ふ方式にした時、「正答率」はどの程度「下がる」ものだらうか。許容範圍を増やすから、「正解」が増えたつてをかしくない。しかも、正字派の教へ方だと、より難しい漢字(もちろん、極端に難しい漢字ではない、「一本槍」思考の人が茲を曲解して變な事を言出す事があるが、常識で考へろ)から教へるから、より簡單な漢字は(概念が理解出來るならば)書ける筈である。より個別的な概念である鷄や鳩を先に教へて、より抽象的な概念である鳥を理解させる。かういつた教へ方は、正字を基準にした方がやりやすい。字形を無秩序に崩した現行の略字より、正字體の方が、説明には都合が良いから、「説得的」に子供に教へられるのである。
「不正確でも大體書けてゐればOK」と言ふと、「現實の教育では困つてしまふ」と言出す教育者が極めて多い。これも異常な話だ。教育の都合のために國語が「ある」とでも教育者は思つてゐるらしいのである。試驗問題で、傍線の指示語が指し示す具體的な内容を何字以内で書け、といつた問題では隨分ファジーな態度をとれるのに、漢字となると途端に態度が硬直するのである。異常としか言ひやうが無いが、かうした部分で拘る事で彼等は自分が何か現實的な教育に關する意見を吐いたと思ふらしいのである。が、國語は教育のためにあるのでないし、表記も教育のためにあるのでない。現實の漢字のファジーな使はれ方に應じて教育でも適切にファジーさを以て當るべきである。正式であるべき場面では正式に、略式であつても良い場面では略式でも構はない――「何時でも何處でも」と云ふ一本槍の考へ方で、全て略字略かなにしてしまへ、等と考へたのは、誤であつたし、反省されるべきである。

日本人は、兔に角何でも一つに方法を絞るべきだ、と極附ける一本槍の考へ方を好む。全ての問題は文脈に沿つて考察されるべきだが、原理が提示されると、その原理で全てを割切らうと日本人はしがちである。ウェブ2.0の考へ方が出て來れば、最う古いサイトは古くて駄目、全て流れはウェブ2.0だ、と云ふ事になつてしまふ。ウェブ文書はダイナミックに生成されるべきであり、インタフェイスはインタラクティヴであるべきであり、データは相互利用可能的であるべきである――ところが、大規模商業サイトと、個人が意見を述べる文書とが、常に同一の方法で提供されるべきかと言へば、さうではないと思ふ。
Amazonは、商品が並べられ、買へるのみならず、ユーザが評價を附けられるし、ユーザに應じて關聯商品が提示されたりもする。ウェブ2.0的なサイトだが、これに似た仕組が全ての個人サイトで用ゐられるべきか。うち邊だと、個別の記事に意見なり何なりを書込めるやうにしてゐれば、「ヘタレ」だの「無職」だのと罵倒の文句で埋め盡され兼ねない。
ブログの「炎上」も、結局のところ、不用意に商用サイトで用ゐられるべきウェブ2.0的な方法を個人サイトに持込んだ事が原因となつてゐる。コメントが書込めなければ、どこで話題になつても知らないで濟ませられる場合がある。もちろん、問題を指摘してブロガーに氣附かせる效能がある、と云ふ意見もあらう。が、問題發言ばかりと言つて個人サイトが潰されてしまふ事があれば、結果としてウェブに於ける個人の活動を萎縮させる事に繋がらないか。向かう見ずがゐる限り、ウェブで跳ね上がり發言は無くならないが、しかし、さう云ふ發言を滅多やたらに潰させてしまふために、ウェブ2.0的なギミックが使はれないとも限らないのである。或程度自衞の爲に、一方的に言ひつ放しに言ふサイトと云ふあり方も撰擇可能であるべきである。もちろん、コメント欄を潰したブログでも良からうと云ふ意見も出てくるだらうし、それ以外の意見も出てくるだらうが、個別論はシステムの議論だから此處では扱はない。