闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「正字正かなは何時如何なる場合にもチンケな文章を知的に見せるのに都合の良いアイテム」である訣がないのに

喜六郎センセイの御立派な文章を轉載する。


2008/3/18「ブスの厚化粧」国語

周知の通り、福田恆存は国語問題に心血を注いだ人である。
国語改革を激しく論難し、旧字旧仮名遣いの復興を主張した人である。
それゆえ福田の愛読者の中には、旧字旧かなを使わぬ者は真の福田読者に非ずと極論を唱える者もいる。

しかし私は旧字旧かなを使わない。
もちろん、それにはそれだけの理由がある。

理由その1。
私は戦後の「間違った」国語教育を受けてきた人間である。
自分にとって旧字旧かなは異文化である。福田恆存のように「旧字旧かなは日本の伝統である」とは決して声を大にして言えない。
旧字旧かなが新字新かなよりも「論理的」であるというのは事実なのかも知れないが、それだけで安易に乗り換えるのは軽佻浮薄だなと思う。

理由その2。
私はネット上で旧かなを実践することが、旧字旧かなを守ることには繋がらないと考えている。
旧字旧かな論者の中には、旧字旧かなの正統性を訴える一方で、アニメやゲームなどの話題を嬉々としてする連中も少なくないが、ああいう行為は旧字旧かなを単なるオタク的アイテムに堕落させる事にしかならないだろう。
「正しい主張」を読み手に正しく理解させるには、それ相応の心構えが必要だ。

悪いのはオタクばかりではない。
オタクをも含んだ、ネット上の旧字旧かな論者に共通して見られる特権意識と大多数の人達への差別意識が非常に不快なのである。

旧字旧かなというのは、視覚的にも非常に分かり易いツールだと思う。
習得するのも外国語ほどには難しくないし、旧字旧かなで書くといかにも権威的で高尚なイメージを文章に与えることができるから。
旧字旧かなほど、チンケな文章を知的に見せるのに都合の良いアイテムはない。
坪内祐三氏の例の「コスプレ」発言は言い得て妙である。

喜六郎センセイは今、「ネット上の旧字旧かな論者に共通して見られる特権意識と大多数の人達への差別意識が非常に不快」と言つてゐる。ところが、この喜六郎センセイの文章を見た前田が喜んで喜六郎のブログにリンクを張つてゐる。おまけにこんな愚かなコメントを付してゐる。

喜六郎の小屋
保守の思想に御關心があるやうです。


嫌みで「御關心」等と敬語を使つてゐるのかも知らんが、別に好意的にとつてやる必要もあるまい。大體、この前田は喜六郎に媚を賣つて、松原氏を侮辱する文章を何處だかの同人誌に書いて、「ブログ」でも公開したのだ。喜六郎も大喜びで、「アンチ松原」が湧いたと大絶讃したもの。アンチの連中の嫌らしさが實に良く現れてゐたが、そのアンチに受ける事許りを最近の前田は狙つて實に低劣な言動を繰返してゐる。こんな輩が國語問題協議會にゐるのは何うかと思ふが、さう言ふ俺の方こそ「外道」だと言ふのがアンチの連中である。

「特権意識と大多数の人達への差別意識」とは、喜六郎、よくもまあぬけぬけと言へたものだ、盜人猛々しいとしか言ひやうがない。俺に言はせれば、喜六郎の慇懃かつ無禮な物言ひ、それこそ「權威」へのコンプレックスと大衆への阿りの顯はれであつて、不快なものだ。
喜六郎に限らず、慇懃無禮な態度をとる人間は例外ナシに自分が一番偉いと思ひ込み、敵を侮蔑してゐる。例のアレクセイの花園の「園主」(Yahoo!は匿名の權利を侵害する事だけを問題視するから奴の本名は書かない)と「ホランド」(これら「アレクセイ」と「ホランド」の「二人」は同一人物だが、「彼等」は「実験」と稱して自分逹「二人」は「他人」だと主張する。「アレクセイ」は目を附けた人間を自分のサイトの掲示板に引きずり込んでは「ホランド」の名前を使つて自作自演攻撃を仕掛け、吊し上げをして愉しむ惡癖を持つ)も、慇懃無禮な態度を取りながら、吊し上げる相手を見下して、愉しんでゐた。彼等の態度に共通して見られるサディズム・嗜虐性は、しかし同じ嗜好の持ち主同士では快樂を味はふ事の出來るものなのだらう。常人には理解し難いが、連中は自分逹の嗜好をノーマルなものと心から信じてゐるからこちらが何を言つても聞く耳持たない。

大體、虹裏でもさうだけれども「信者」「信奉者」と言つて他人を侮辱する逃好きな「アンチ」連中は、自分逹の嗜虐趣味に自覺が足らない。なあ「アンチ」諸君よ、君逹はフォーマルな場では「信者」と言つても、蔭では「信者ども」と言はないか。と言ふより、ブログで「信者」を罵る喜六郎の口吻、あれは本心で「信者ども」と思つてゐる事を示唆してゐないか。なら、誰だよ、差別意識を持つてゐるのは。アレクセイにしても喜六郎にしても、差別意識を「丸だし」にしないでオブラートに包んでゐるから自分逹は差別意識を持つてゐないのだと、そんな風に言ふ。けれども、表現をオブラートに包まうが包むまいが、差別意識は意識として持つてゐる時點で最う駄目なんだよ。意識なんだから。喜六郎や「義」の差別意識、それを俺ははつきり感じ取る事が出來る。表記が何う斯うと喜六郎みたいに俺は理窟を言はない。しかし喜六郎の慇懃無禮な態度だけで俺は不快感を覺える。勿論、「義」のやうに露骨に表はしてゐれば良いと言ふものでもない。差別意識があると云ふ事がそれ自體として行けないのだ。自分逹に差別意識があるか無いかと云ふ事を「義」も喜六郎も決して問題にしない。ただひたすら氣に入らない「野嵜」なり「信者」なりの態度を問題にして、結論として「惡い」と言ふだけの目的で喜六郎や「義」は動機を極附けてゐる。


なほ、前田の松原氏への攻撃は以下の記事にちらと出てゐるが、實に非道い内容の文章を何處だかの雜誌に書いたとか。


前田も松原先生の文章それ自體を問題とせず、例へばその效果を疑つて見せたり、或は動機を極附けたりして、結論として松原先生を惡人に仕立て上げてゐた。喜六郎や「義」のしよつちゆうやる嫌がらせ的な誹謗を前田はそつくりそのまゝ眞似てをり、それがパロディなら許せるのだが、上のやうな記事を書いて好い氣になつてゐるのだから本心なのだ。


アウトサイダーが正統であるのが日本である」とうそぶく文學徒です。

まー嫌らしいディレッタントの言ひ方だが、これを何故か喜六郎は責めない。勿論、前田が「松原信者」の信奉する松原先生に反旗を翻したから喜六郎は大喜びしただけなのだが、それは喜六郎が單なる「信者」へのアンチに過ぎない事を證する。そして、アンチの常だが、「惡いのは全て信者」と云ふ責任轉嫁を喜六郎は繰返してゐる。それを前田は肯定してゐるのだが、俺はそれを不快に思ふ。
大體、「野嵜が福田恆存の名前を利用して賣名行爲をしてゐる」と言ふのなら、前田こそ福田氏で商賣をして、賣名をやつてゐると言へるだらう。それなのに喜六郎は決して前田を責めない。「アンチ松原信者」だから、松原氏に反旗を翻した「アンチ松原」(しかも、前田は自分がした松原氏への中傷に對して不快感を表明した人間を憎惡或は嘲笑してゐるのだから最早「アンチ松原信者」である)を自分の仲間と看做して、喜六郎は感情を害さないやうに繊細に接しようとしてゐるのである。全くもつて嫌らしいとしか言ひやうがない。
そして、これだけ言つても喜六郎は「野嵜は無視」宣言を楯にとつて反論しないし、反論しない事で喜六郎は勝つ。俺はこんな風に長々と書いてゐるが、書いてゐるがゆゑに負け犬扱ひされる。日本ではさう云ふものだが、ならば日本は最低の國だ。


さて前田。



松原氏の名前が未だに入つてゐるが、嘘なのだらう。好い加減記述を削れ。中傷しておきながら「好き」だと言ふ――斯う云ふところに前田の狡さが露はれる。喜六郎も仲間には良い顔をするから、斯う云ふ自分と同じやうに振舞ふ前田を「立派」だと評價出來るのだらう。
しかしまあ、類は友を呼ぶとは良くも言つたものである。


ところで、「オタク的アイテム」でありながら同時に「チンケな文章を知的に見せるのに都合の良いアイテム」であるとは、實に支離滅裂な發言ではないか。喜六郎當人はこれが支離滅裂だと感じられない。なぜなら、喜六郎は、他の「アンチ仲間」と同じやうに、罵倒の文句を書き連ねる事だけが目的なのであり、そこで不整合が有つても「罵倒である」と云ふ唯一點で一貫してゐさへすれば良いからだ。論理的に矛盾でも、「罵倒」と云ふ全く異る次元で評價出來る事がありさへすれば、喜六郎(と彼の取卷き、「アンチ」集團)にとつては十分説得的なのである。日本人の間では、話のすり替へをすると、それは大變素晴らしい論理に見えてしまふものらしい。日本人は今でも近代以前の世界に住んでゐる。喜六郎は完全に前近代の人間だが、それと同じ事を言つてゐるのが西部邁である。
俺は日本が近代化するものと見てゐるし、近代化しなければ生残れないと思つてゐるから、あゝ云ふ態度は肯定出來ない。