闇黒日記?

にゃもち大いに語る

ただの「保守」ではじり貧にしかならない事

W・マーシャル・ホートンの『キリスト教は文明を救いうるか』(社会思想研究会出版部)と云ふ本を讀んでゐるのだけれども、文明は常に文明を指導する價値觀を根柢に持つてをり、その價値觀が生氣を失ふと文明字體も死滅の危機に瀕するとホートンは指摘してゐる。過去のキリスト教的な價値觀が崩潰しつゝある現代の文明も死滅しつゝあるのだが、現代文明が生延びるには新たな生き生きとした價値觀が出現しなければならない。その價値觀は、全く無から創造すべきか。過去の歴史でもキリスト教は再生を果し、文明を救つて來た。今、近代文明を救ふべき價値觀として、キリスト教が再生をはかる事は、不可能ではないだらうとホートンは述べてゐる。
現代の世界は最早單一の文明であり、世界は西歐に覆はれつゝある。西歐文明の背景にあつたキリスト教の衰退と、現代の文明社會の腐敗と衰退とは軌を一にする。キリスト教の再生は世界文明の最盛に寄與するものであるとホートンは考へてゐて、ただ、單純な過去のキリスト教への固執は無意味である事を示してゐる。
西部の發想(喜六郎の「私は戦後の「間違った」国語教育を受けてきた人間である。自分にとって旧字旧かなは異文化である。」と云ふ主張と全く同じ)は、單なる現状維持の論であり、現状の保守を西部は保守であると信じてゐる。
俺にしてみれば、その種の保守は沈滯を招き腐敗を生ずるだけであるから全く評價出來ない。俺はその意味では保守主義ではない。單なる反動としての保守を標榜し、過去のやり方に拘るのも――さう云ふ糸で正字正かなを使ふのも、俺は評價出來ない。
喜六郎なんかが罵る「オタク的な言動」も、それは俺がオタクであるだけの事であつて、表記としての正字正かなそれ自體と何の關係もない話題の面での「問題」に過ぎない。表記と話題とは何の關係もないのであつて、喜六郎はただ「效果」の面で評價してゐるが、それは政治運動家・政治活動家の評價であつて、俺にしてみれば何の意味もない。
俺はただ、使ふ事――使ひ續けるこそが重要であると信じてゐる。死んだ言葉として博物館の標本みたいになつて存續しても、正字正かなには意味がないのであつて、生きた言葉として正字正かなの文章が存在し續けねばならないのだ。だからこそ、使ひ得る場面なら俺は出來る限り正字正かなを使ふと、それだけの事でしかない。たまたま俺がヲタだから話題がヲタ的であるに過ぎないが、過去には艷本が正字正かなで印刷され讀まれてゐたのだ。それはそれで生きた言葉だつた事は確かだ。ところがさう云ふ生きた言葉としての正字正かなの使用を西部は或は喜六郎は封印せよと言ふ。それこそ正字正かなを殺す事にほかならない。勿論、西部にしても喜六郎にしても、戰後の人間であり、戰後の價値觀に――或は價値の不在の状況下にどつぷり漬かつて生きて來たのである。西部にしても喜六郎にしても、戰後民主主義を批判する資格は無い。ただ、今の無價値の時代に批判をする行爲を評價しないと言ふのは、單に時代に流されての事である。喜六郎の「批判」は、今の時代らしくただの罵倒であるし、今の時代らしいからこそ誰も喜六郎を責めない。しかし、それでは今の世の中はどんどん惡くなるし腐敗して衰退して行くだけである。
福田恆存は「超近代」と言つたのであり、ロレンスを論じて主張したやうに死にかけた近代文明を再生させる事を主張した。俺はその福田さんの主張を眞似してゐるに過ぎない。けれども同時に俺は福田さんと世代が違ふし、さらに松原先生とも世代が違ふから、主張の仕方以前の意識の時點で相當ずれがある。そこで先達と違つた自信のなさが顯はれても仕方がない。福田さんが天を信じてゐた樣な信仰は松原先生にはないし、俺には松原先生よりもさらに確信が無く寧ろニヒリズムに近い。そこで正字正かなと言つても地に足が付いてゐないものにしか見えないのも當り前で、ただそれでしつこく正字正かなを使つてゐるのは意地に過ぎないが、それが役に立たない事は百も承知。世の中は變らない。衆寡は敵しない。正字正かなは所詮滅びるものだと思つてゐるし、だが、その時は世界が道連れである。世界は存續して行くだらうけれども、最早生き生きとした生はこの世から喪はれる。ならばこの世に價値はない。どうせ世界はいつか滅びるのであり、そこで何らかの抵抗を示す事は意地を張る事以外の何も意味しない。