闇黒日記?

にゃもち大いに語る

俺は馬鹿だから反省しない

喜六郎が「慈悲」を垂れてやると傲岸不遜な事を言つて來た。喜六郎とは一體如何なる偉大な人物なのだらう。喜六郎のやうな輩でも少しは反省するかと思つたが、相變らず自分が一番偉いと心から信じてゐる事が判つただけだつた。

粘着は、一方的に他人に道徳的な説教をする、傲慢な人間である事が判明しただけだつた。さう云ふ連中を相手にして、俺は一切反省する必要を感じなくなつた。「義」がまたぞろ「無職」は何うの斯うのと根據の無い惡口を書込んで來た。ネットワーカに粘着するのは斯う云ふ底意地の惡い人間の屑だけである。

俺は十年近くの間、ウェブで正字正かなについて一番のウェブサイトをやつてきた。これは、やりたくてやつたものではなく、會津士魂氏の「國語問題研究會」が更新を二囘しただけで消滅し、青方の中村が「電脳正統記」を投出してしまつたから、已む無く俺が、馬鹿であるにもかかはらず、他にやる人間がゐないから、やつて來ただけだ。
結果として十年そろそろ經つ訣だが、相變らず、俺のサイトを超える正字正かなサイトを誰も作らない。國語問題協議會もウェブでの活動を擴大する積りはないらしい。
既に俺のサイトがウェブで一番の正字正かなサイトである――ならば今さら抛り出す訣にも行かないのであつて、誰一人積極的に俺を支援して呉れず、ひたすら粘着どもの活發な嫌がらせ行爲を放置して呉れてゐるだけの現状であつても、俺は今の正字正かな專門サイトを「公的」なものとして續けて行くしかない。

俺は、批判はして來た。けれども、嫌がらせをして他人の人格を貶め、否定しようとした事は、一度もない。そして、批判なら、つねに檢證可能な事であり、俺の主張は屡々客觀的に否定されて來た。ならば俺の批判は批判として妥當である。道徳的な説教の類をして、一方的に誰かを侮辱し、反論を封じ込めた事は――意圖的にしようとした事はないし、少くとも長期間に亙つてそれだけをし續けた事はない。もちろん、「○○信者を潰す爲のブログ」のやうな事を名乘つた事もない。
專門的な教育は受けた事がないから、專門的な知識を俺は持たない。だから俺は馬鹿だが、しかしウェブでは專門家が正字正かなサイトをやつて呉れたか。呉れはしない。だから仕方がない、俺がやつただけの事だ。批判。批判する事は誰もがやつてゐる。なぜ俺だけが人格的に誹謗中傷されねばならないのか。やり過ぎたからと言ふか。俺より餘程非道い事を言つてゐる輩は他にもゐる。大體、なぜ俺・野嵜に「だけ」粘着しなければならないのか――喜六郎や「義」その他の粘着に聞きたいが、なぜ俺・野嵜に粘着しなければならないのか。「野嵜が惡い」「信者が惡い」の類は、俺の側の問題だ、お前ら粘着内部に、「信者」なる存在を設定して敵と認識し、攻撃せねばならない動機はあるのか。お前ら粘着が粘着と化さねばならない、必然的な理由はあるか。「なつて惡いか」と粘着は言ふだけである。惡いに決つてゐる。何處のウェブサーヴィスでも、嫌がらせやつきまとひ行爲は禁止されてゐる。
俺のしてゐる事は批判であり、嫌がらせではない。不快に思ふとしたら、間違ひを指摘されて不快に思つても、それは仕方の無い事で、そこで指摘した人間を怨むとしたら、それは逆切れだ。ただ、その指摘を何年も何年も執拗に繰返し繰返しやるとしたら、その時はその執拗さが惡意の顯はれであり、嫌がらせの爲の嫌がらせである。批判ではなくなるのであり、糺彈すべき惡事となる。俺はそのやうな嫌がらせの爲の嫌がらせ、粘着行爲はした事がない。
俺の批判は、人を怒らせる事が目的ではないからだ。粘着どもは、俺を怒らせ、嫌がる事をして、快を貪つてゐる。喜六郎よ、御前は俺を侮辱して、快を得てゐないか。そして、その快を得る事が「喜六郎の小屋」なるブログを作つてゐる目的でないか。さうだらう。ならば御前のしてゐる行爲は惡事である。

俺・野嵜は「他人を攻撃してゐる」と粘着どもは言ふが、攻撃する事夫れ自體の目的を彼らは無視し、或は歪曲してゐる。彼らは、俺が傲慢だからとか言つてゐるが、傲慢かさうでないかの判定基準は彼等粘着の場合、彼等自身の主觀である。「義」の場合、無職だと「義」が勝手に判定した人間のする行爲は全て傲慢だと言つてゐるだけだ。喜六郎の場合も似たやうなもので、「松原信者」のする行爲は全て一つの例外ナシに「愚か」だと極附けて、動機なり何なりを故事つけて説明してゐるに過ぎない。やつてゐる事は、自分の嫌がらせを尤もらしく見せかけてゐるだけで、だから過去の「信者」の間違ひを殊さら大袈裟に言立てて「愚かである」「愚かである」と喜六郎は言ふのである。自分自身の主張は全て愚かであると言ふのに。
自分自身がなぜ俺・野嵜にコミットしなければならないのか、それを説明できない輩が、意地になつて粘着して、自己を欺瞞し、俺・野嵜を侮辱して好い氣になつて、自分の惡事をごまかしてゐるのだと、今の状況は言ふ事が出來よう。

ちなみに、まともな專門家から、俺は一度として否定された事がない。
自稱專門家とは何度もやり合つたが、彼らは一人の例外もナシに學生かそれに毛が生えた程度の輩で、專門的な教育を受けて專門的な方法を身につけた人間ではなかつた。だから彼らは直ぐに俺の人格を否定しにかかつた。
せいぜいかじつた程度の專門知識をひけらかして、こちらの意圖を無視して一般的に解釋し、ひたすら人の主張を問答無用で否定して、それで俺は專門家なるぞと威張つてゐる輩すら存在する。本當の專門家なら、人格攻撃を何年も續け、人を見下して好い氣になるものだらうか。
反省しない哲學の專門家なんてものすらも、この世に存在するらしいのだ。彼らは反省しないで良い哲學なんてものを、何處で「學んだ」と云ふのだらう。哲學の知識がそれ自體としては人格の陶冶に繋がらない例である。
或は、中途半端な專門家氣取りの輩こそ、迷惑この上ない存在だと言ふ事が出來よう。彼らは、自分がいつぱしの專門家だと思つてゐるから、斯うやつて俺のやうなずぶの素人に指摘されると、かつときて、素人風情がと見下して、自らを慰め、粘着し始めるのである。

中途半端な人間が、自分は偉大な存在であると勘違ひし、己には「信者」に説教する資格があると信じ込んで、粘着と化し、嫌がらせを働いて、にもかかはらず、「惡いのは信者」と言張つて胡麻かし、人の行爲を妨害してゐる。
「嫌がらせをされたくなければ默る事だな」と喜六郎は言つた。これはテロリストの「論理」である。「テロを仕掛けられたくなければ、大人しく我々の要求に從へ」――喜六郎ら粘着は、さう言つてゐるのである。これを今のウェブの多くの人が、「かかはりあひになりたくない」からと言つて、スルーして見過ごしてゐる。これは、粘着・テロリストの活動を間接的に支援する事だ。さう云ふ傾向がある事を見越して、粘着どもは自己の嫌がらせ行爲をエスカレートさせる。
今のウェブは、斯うした行爲に對して積極的に對抗する方法を持たない。もともと善意に基いたシステムだから、インターネットはユーザの善意に基いて守らなければ崩潰するやうになつてゐる。粘着は、インターネットの仕組を惡用して、破壞活動に勤しんでゐる。彼らが何を言はうが、ネットワークを守らねばならないと考へる良心のある人は、積極的に破壞活動に抗して行かねばならない。

自己中心的で思ひ上つたエリート意識の強い粘着は、インターネットの敵であり、インターネットを破壞する存在である。彼らが如何に利口ぶつたところで、彼らは中途半端な存在に過ぎない。
俺は馬鹿だが、だからこそ反省しない。一々反省しないで良いところで反省して見せる事こそ僞善であり、許されざる行爲である。既に俺のサイトがウェブを代表する正字正かなサイトなら、從來の方針を轉換する事こそが閲覽者の方々に對する裏切りになる。粘着どもは、さう云ふ裏切りをしろと要求してゐる。俺はさう云ふ惡の破壞者に據る要求には屈しない。
俺は馬鹿だから反省しない。いい意味で馬鹿にならなければ、ウェブサイトなんてものは、十年もやつてはゐられない。