闇黒日記?

にゃもち大いに語る

自分の勝手な解釋で他人を侮辱する喜六郎の愚

俺に粘着してゐる喜六郎が相變らず反省もせずに人を小馬鹿にして好い氣になつてゐる。
http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/89.html
私は松原信者みたいに「道徳」を連呼したりはしない。
「發言する權利」を奪うつもりなどない。私は単に「あんたらが人様を叩くなら、こっちも叩き返してオッケーだよね?」と言ってるだけだ。
何が「オッケーだよね?」だ。斯う云ふ輕い口調を平氣で使ふから喜六郎は愚かなのだが、當人は「俺今良い子と言つた!」と本氣で信じてゐるから救はれない。ところで今はそんな詰らない喜六郎の人格を云々しても仕方がない。

喜六郎は我々「松原信者」が「道徳」を連呼してゐると言つてゐる。ここで喜六郎は「松原信者」が道徳臭い事を言つてゐると解釋して「道徳を連呼」と言つてゐる事は明かだ。だが、松原氏の用語としての「道徳」が、所謂「よいことをしましょう」の類でない事は、大變有名な事實だ。少くとも、俺のサイトの文章を讀んでゐれば、世間の所謂道徳とは異る定義で「松原信者」が道徳と言つてゐる事は誰でも判る事である。少くとも「アンチ松原」の喜六郎が知らないで良い事ではない。

ところが喜六郎は、輕く「道徳」と言つてゐる。これは何なのか。

要するに、喜六郎は「松原信者」の言つてゐる道徳と云ふ事を全く理解してゐないのである。相手の言つてゐる事をまるで理解しないで非難する資格はないのだが、にもかかはらず、喜六郎「松原信者」を非難してゐる。これはをかしい。
喜六郎は、自分が頭が良い人間だと信じてゐて、だからこそ「松原信者」は「頭が惡い」と宣傳して好い氣になつてゐる。これは大變傲慢な事だが、當人は「當り前の事」と心から信じてゐる。何うしやうもない人間だが、何うしやうもない人間に限つて自分は素晴らしい人間だと勘違ひするから何うしやうもない。

斯くも何うしやうもない頭の持主である喜六郎だからこそ、以下のやうな事を平氣で言へる。
自分は人様を散々叩いておいて、人様に叩き返された途端「人権侵害だ!」だの「言論弾圧だ!」なんて宣うのは、いくら何でも虫が良すぎるわい。
「叩く」と云ふ言葉を喜六郎は曖昧に用ゐてゐる。だからこそ喜六郎はこんな非論理的な事を「論理的だ」と思つてしまふのだが、頭が惡いからさう思つてしまへるに過ぎない。
俺は間違つた事を言つてゐる人間を批判してゐる。それを「叩く」と言つてゐる。ところが喜六郎の場合、糞も味噌も何でも「叩く」だ。喜六郎のやつてゐる事は粘着行爲で、批判でも何でもない。それが喜六郎には解らない。自分が正義だと喜六郎は信じてしまつてゐる。だからこそ「粘着」を「正しい行爲だ」と誇らかに宣言してしまふのだが、誰がどう見ても粘着行爲は異常だ。異常な事を異常だと悟らないのは電波でトンデモで、さう云ふ連中を俺は何時も叩いてゐるが、さうすると電波でトンデモな連中は俺を憎惡する。喜六郎等が俺を憎んで、嘲り、侮辱を加へようとしてゐるのもその所爲だらう。

喜六郎は俺の言つてゐる事を全く理解してゐない。
「政治と道徳を區別してゐるだけだ」なんてよくも言えたモンだ。
結局野嵜健秀は、「俺は九十九匹の問題(政治経済)には興味を持たない、一匹の問題(道徳?)にのみ興味を持つ」と言ってるのである。
「一匹の問題(道徳?)」と喜六郎は言つてゐる。喜六郎は解つてゐないのである。なぜ喜六郎は解つてゐないのに叩かうとするのか。人間が腐つてゐるからだ。
ところで、喜六郎は福田恆存の「一匹と九十九匹と」を讀んでゐないのだらうか。


さて、最後に馬鹿の馬鹿たる所以を明かにして今囘の記事を終へよう。
結局野嵜健秀は、「俺は九十九匹の問題(政治経済)には興味を持たない、一匹の問題(道徳?)にのみ興味を持つ」と言ってるのである。
一部の野嵜信奉者を除けば、誰がどう読んでも野嵜健秀は「道徳だけが大事だと信じてゐ」るとしか解釈しようがないではないか。
「アンチ」には、「信者以外」は全員自分の身方だ、と思ひ込む傾向がある。
「誰がどう読んでも」と言つてゐるが、その「誰」とは誰だ。喜六郎だ。喜六郎は「俺は『野嵜は道徳だけが大事だと信じてゐる』としか解釋しないのだ」と宣言してゐるに過ぎない。


しかし、本當に愚かなのは、こんな下らない揚げ足取りを、喜六郎が「批判」だと心から信じてしまつてゐる事だ。道徳とか政治とかを論じるのなら立派だ。ところが喜六郎は「野嵜は何を信じてゐるか」「野嵜は何を言つてゐるか」――野嵜、野嵜、野嵜。否、喜六郎は、何が面白いのか、常に「野嵜健秀」は、と俺をフルネームで呼ぶ。何か「野嵜健秀」に恨みでもあるのだらうか。俺は喜六郎に恨まれるやうな事を何一つしてゐないんだが。

大體俺は、喜六郎に叩かれる以前に喜六郎を叩いた事はなかつたんだぜ。「あんたらが人様を叩くなら、こっちも叩き返してオッケーだよね?」と喜六郎は言つてゐるが、なんで「こっち」こと喜六郎が「人様」に成代はつて俺を叩かなければならないんだね。
「人様」は喜六郎よ、御前に何時何處で如何なる權限を與へたと言ふのだ。答へよ。もちろん、誰も喜六郎に「野嵜を叩いて下さい」などと頼んではゐない。喜六郎は思ひ上つてゐるのだ。喜六郎よ、貴樣は何樣の積りだ。