闇黒日記?

にゃもち大いに語る

政治主義的人間、汝の名は喜六郎

何ども言ふが、俺は飽くまで政治と道徳の峻別すべき事を言つてゐるのであつて、「政治は一切無用であり、人間は道徳的に良いとされてゐる行爲のみをすべきである」と説教してなどゐない。そもそも政治と道徳の定義を、俺はちやんとしてゐるのであつて、その定義に從つて俺の言つてゐる事を理解して貰ひたい。

喜六郎は、「政治」と言ふと「人を支配する事」、「道徳」と言ふと「良いとされる事を實踐する事」だと「常識的」に考へてゐる。だからこそ、俺が「道徳」と言ふのを「説教臭い」――「何を偉さうに」と思つて、憎惡し、「なら自分は良い事をしてゐるのかよ」と非難する。もちろん、それは、喜六郎が他人の言つてゐる事をちやんと讀めず、自分の思ひこみだけに基いて勝手に解釋・判斷してゐる誤を冒してゐるからしてしまふ誤つた非難なのだが、さう云ふ誤を冒すやうな人は自分が誤つてゐるかも知れないなどと反省する事が出來ない。だから俺が如何に釋明しようとも「言ひ訣するな」「甘えるな」と、それこそ傲慢極まる言ひ方で切つて捨てるのだが、それはないだらう。

喜六郎は、「自分抜きの思想は空虚」等と、またもつともらしい事を言つて、木村氏を叩いてゐる。
http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/93.html
お仲間にすら支持されない、経済記者氏の道徳的経済論(笑)。 なんで支持されないのかお気づきでないようだから(お仲間の場合は別の理由がありそうだが)、私が教えてやる。 それは自分自身の問題を無視してるからだ。
既に
http://kimura39.txt-nifty.com/hell/2008/11/post-7628.html
のコメント欄で指摘したが、喜六郎のこの文章は目茶苦茶で、「何を」教へてやるのかを喜六郎は失念してゐる。
「自分抜きの思想は空虚」とは良くも言つたもので、「お仲間が支持しない」理由を「説明してやる」と言つて「喜六郎が支持しない理由」を説明して呉れてゐるのは、要は喜六郎が、匿名であるにもかかはらず、「自分の言ふ事を聞け」と言つてゐる訣で、ここで喜六郎は喜六郎自身の解釋を押附けようとしてゐるのだ。タイトルに佯りは無いにしても、文章の論旨が纔か數十字先で變つてしまつてゐるのはいただけない。それは兔も角。

結局は自分自身を棚に上げて、他人に向かって厳しさを強要しているに過ぎないのである。
喜六郎の何時ものパターンで、「偉さうな口を利いてゐるがお前何樣の積り?」と云ふ攻撃だ。もちろん、喜六郎自身にもその非難は撥ね返つて行つて然るべきだが、喜六郎は絶對反省しない。何となれば、喜六郎は、正しさとか道徳的とか、そんな事はただ「松原信者」が口にしてゐるから言つてゐるまでの事で、さう云ふ事には何ら關心を懷いてゐないし、それらを大事だとも思つてゐないからだ。

實は喜六郎は、ただ、「説得力がない」と言つて、「松原信者」を非難してゐるに過ぎない。

喜六郎は、「他人を説得できるか否か」と云ふ事だけに興味を持つてゐるし、それだけに重きを置いてゐる。それは、喜六郎が「説得する事で他人を實際に動かせるかどうか」にのみ興味を意味してゐる事と同義である。
要は、他人を支配する爲の辯舌をふるへるか何うか、で喜六郎は他人を評價してゐる、と云ふ事だ。喜六郎は惡い意味でソフィストであり、それゆゑ俺のやうな「ソクラテス側」の人間をソフィスト喜六郎は憎惡し、嘲笑する訣だが、しかしさう云ふ「人身掌握術」にのみ興味を持つ喜六郎は、「人を支配する事」に興味のある、政治的な人間だ、と言つて良い。もちろん、この「政治的」は、喜六郎にしてみれば常識的な「誰が見てもさう讀める」式の意味での「政治的」だが、人を人とも見ない、ただ「もの」として扱ふ態度として、俺の言ふ政治主義的な態度と言つて良い。そして、俺は、さう云ふ態度を非難してきたのだ。人を人として見ない態度――そんなものに俺は興味が無いし、それを憎む。さう云ふ意味で俺は「政治には興味がない」と言つて來た。それを喜六郎は理解出來なかつたが、喜六郎には人を人として見ない、ただ支配する對象としてのみ人を見る事が「當り前」であつた。

さう云ふ態度は、なるほど日本人にとつて「當り前」のものなのだ。だが、それは良くないと俺は思つてゐる。價値觀の相違だと言はれればそれまでで、「當り前」の側にゐる喜六郎にして見れば、「當り前」に逆らふ俺の態度は小生意氣で傲慢なものに思へてしまふのだらう。
だが、さう云ふ喜六郎が、現實に傲慢な言動を繰返してゐる事實を見れば(「私が教えてやる」と云ふ言ひ方を、何うして喜六郎は傲慢だと思へないのだらう)、矢張り政治主義的人間の道徳的鈍感は問題として世間に提起せねばならない。人を人とも思はない喜六郎のやうな政治的・政治主義的人間の、道徳的不感症と云ふもの――これを指摘したところで、慥かに人間は良くなりもしないのだが、さう云ふ指摘を「する」のも必要な事だと俺は信ずる。殊に、さう云ふ事を「しない」のが「當り前」の日本では。