闇黒日記?

にゃもち大いに語る

すげえ大事な事を言ひ忘れてゐた

俺は現行憲法の無效化を現實に實現できると思つてゐないし國字の正常化も現實に實現できると思つてゐないよ。そこまで俺は樂觀的ではない。そもそも日本人の精神がまともにならなければ、憲法の状態も國語の状態もまともになる訣がない。


ただ、理念として現行憲法は成立過程で間違つてゐるし「現代表記」も間違つてゐるから、幾らでも非難して構はないと思つてゐる。そして、さう云ふ批判を續ける事で、少しでも世間の人に反省を促せればいいと思つてゐる。

實際に運動として成績を擧げなければ何の意味もないと云ふのが喜六郎一派の主張だが、俺は政治運動家でないし、戰術だけを重んじ、運動を殆ど娯樂としてやつてゐる政治運動家のする事を肯定する氣にもならない。
政治は必要なものだし、立派な政治家の立派な行爲は敬意に價するが、樂しみとしての――或はそれ自體が目的と化した政治運動は空しいだけのものだ。日本人はさう云ふ「運動の爲の運動」に力を入れる傾向がある。システム作りに邁進して何が目的か――人間の精神を失念する過ちを日本人は冒しがちだ。西尾幹二西部邁にもさう云ふ傾向がある。福田氏が偉いのは、決して政治運動に淫しなかつた事だ。

時枝誠記が、國語問題協議會の中にあつて、國字の正常化等最早望めない事をはつきり意識し、或は言葉にしつゝ、非常にさめた樣子を見せながら、しかし同時に熱心に活動を行なつてゐた事は、何處かで誰かが書いてゐた。
さう云ふ態度を俺は「不眞面目だ」等と思はない。福田氏は「醒めて踊れ」と言つてゐた。福田氏が「演戲」の大事を言ひ續けたのは、單なるポーズを「大事」と言つたのではない。飽くまで、全てを見通す冷靜さを持ちながらも、同時に「何も知らない」かのやうに人として自然に振舞ふ事の大事を言つたものである。
喜六郎のやうな、如何にもわざとらしいポーズを演戲とは言はない。あゝ云ふ「俺は今嫌みを言つてゐますよー」みたいな態度は、下手な演戲と言はざるを得ない。
ハムレットの役者はハムレットの最期を知つてゐる。けれども、御芝居の途中で役者は生き生きとハムレットを演ずる。死の場面が訪れるまで、ハムレットは己が死する時の事をまるで知らないかのやうに演じなければならない。
が、演戲は御芝居の中だけの事ではないのだ。現實の生においても、人は演戲しなければならない。それは狹義の演戲ではなく廣義の演戲であるが、本質的には同じだ。巧く演ずる事は大變大事である――が、同時に役者は醒めてゐる事によつて自分の役柄を演ずる快感を最大限味はふ事が出來る。


俺としては、何うせ言つても無駄だらう事は判つてゐるのである、が、それでもやらねばならないから、今の憲法の異常さは繰返し言ふし、今の國語の表記の異常さも繰返し言ふ。それを嘲り、侮辱する人はゐるだらうが、ゐても仕方がない、が、俺は反論するのである。

ところで俺を罵る喜六郎、御前は何者だ。


ひたすら與黨の政策を非難し、黨員を侮辱する萬年野黨――彼等はただ敵の失策を大袈裟に言立てる許りで、自身は何の方針も持たない。
斯う云ふ連中がいざ政權をとつた時、世の中を何う動かして行くか、具體的な方策を持たないまゝ、ただ「もつともらしい政策」を提示しつゝ、出たら目に世間を引張つて行く事になるのである。
……これは今の話ではない。或は今だけの話ではない。戰爭前の日本で何度も生じた事態である。餘りに非道い事態を受けて、遂に軍が乘出して、擧句、日本は滅亡した。明治以來の「憲政」が定着せず、政黨政治が崩潰したのは、政治家がただ敵の「誤」を衝く事だけに熱中し、權力爭ひを続けた結果に過ぎない。自身には何も理念がなかった、それが日本の政治家の重大な・致命的な問題だつた。今でもそれは變らない。理念を持たないのは、政治家のみならず、日本人一般の缺點である。
喜六郎は、或は日本人は、斯うした過去の歴史から、過去の日本人の失敗から、或は今の日本人の缺陷から、何も學ばうとしない・何も反省すべき點を見出さうとしないらしい。喜六郎がしてゐる事は、ただ氣に入らない敵を追落すだけのために追落さうとする行爲である。こんなに無意味で空しい行爲もないのだが、喜六郎には自分のやつてゐる事が空しいと云ふ自覺が無い。のぼせ上がつてゐるからだ。
喜六郎には改めて「醒めて踊れ」と云ふ言葉を贈りたい。