闇黒日記?

にゃもち大いに語る

アンチには思想がない――快樂追究だけが目的のアンチと云ふ存在

「アンチは荒し」と何處かで言はれてゐたけれども、喜六郎を見てゐると本當にさうだなあと思ふ。場を荒して、その荒れた状況を眺めて樂しむ――それだけの事がアンチは樂しいのだ。喜六郎は俺を怒らせて面白がつてゐる。喜六郎の取卷きでイエスマンをやつてゐるアンチの連中は、喜六郎が俺を嘲るのを見て、一緒になつて嘲つて、それを樂しんでゐる。

その事ははつきり判る。

三者の意見を聞いても、喜六郎らのやつてゐる事を見て「氣持が惡い」以上の感想は出てこないのだ。喜六郎らの行爲に「嫌がらせをして樂しむ」以上の意味を見出せる人間は誰一人存在しない。この事は餘りにも明かな事實だ。
なぜか。
喜六郎には思想がないからである。彼等の取卷きも含めて、積極的に自分の意見を言つてゐる人間は一人もゐない。彼等は「野嵜の言つてゐる事の此處がをかしい」とだけ言ふ。
精々喜六郎が「私は~だとは思わない」と威張つて言ふだけである。が、それは意見か。勿論違ふ。全て喜六郎の言つてゐる事は、俺の發言の否定であつて、喜六郎自身の意見の表明ではない。
喜六郎の全ての發言を見ても、喜六郎の意見は全く解らない。喜六郎の個別の發言に限らない、現在まで延々何年も續けてゐる粘着行爲それ自體も含めて、喜六郎の言動と云ふもの全體を通して、「喜六郎の主張」――或は「喜六郎の信ずる理念」と云ふものが、讀み手には全く傳はつて來ない。ただただ喜六郎が「野嵜を侮辱して喜んでゐる」だけである事が判るだけである。

だからこそ喜六郎は、ただのアンチであり、ただの粘着である――ただの××××に過ぎない、と思はれる訣だ。

そして、普通の人間は、ただの××××のやつてゐるアンチ行爲、粘着行爲を、氣持ち惡いと思ふのが當り前である。言つてみれば「常識的な人間の常識的な道徳觀」である。
「古本屋が自由に持つて行つて良いと言つてゐる本を持つてくるのはをかしいと思ふのが當り前の道徳觀」と言つた喜六郎のやうな異常な人間に、當り前の話は理解出來ないかも知れないが――。

××××のやる事も、結局は論理に基いてゐるさうだが、まともな人間なら絶對に採用しない原理を××××は平氣で採用するから××××であるらしい。喜六郎は「野嵜をいたぶる事は善であり正義であり常識である」と信じ、それを「原理」に粘着アンチの行爲を何年も續けてゐるが、そんな事はまともな人間はしない。喜六郎の粘着行爲は粘着行爲であるがゆゑに異常なのであつて、さう云ふ異常な人間の言ふ事を、まともな人間は普通きかないし、それがまともと云ふ事である。喜六郎と、喜六郎に同調してゐる連中は、一人の例外もなく異常人格者であるし、異常人格者であるからこそ自分逹の行爲がをかしいと認識出來ない。

俺は、まともな議論で、人格批判などする積りはない。當り前の話だ。筋道の通つた意見を提示し、ちやんと「何が正しいか」「何が眞實であるか」を追求する目的で論理を展開してゐる人に對して、誹謗中傷を浴びせて默らせようとするのは、議論の正道ではない。
だが、今は、まともでない連中からまともでない嫌がらせをされてゐる最中である。まともでない連中をまともでないと指摘する事は、人格批判ではなく、事實の指摘である。議論でない事を議論でないと指摘するのは事實の指摘である。人格批判には當らない。人格批判とは、ただ人格を否定する事によつて人の主張を問答無用で封じ込める、言論の自由を否定する行爲であり、喜六郎や「義」のしてゐる事である。

俺は、憲法に規定された言論の自由を神聖視するのでなく、或は、イデオロギー的に自由を絶對視する立場を守らうとするのでない。政治的に自由には「價値がある」とされてゐる事を、喜六郎が否定するのは構はない。
ただ、河合榮治郎が主張したやうに學問には自由が認められねばならないし――そもそも人間の思想それ自體には如何にしても制限は掛けられない。このインターネットは誰がどんな事を主張しても構はないし、さう云ふ目的の爲に開發されたシステムだ。もともと切斷されにくい軍事ネットワークとして開發されたものだが、大學の施設が接續されて、以來、インターネットは學術ネットワークとして發展してきた。
ウェブは本來、自由に論文を公開し、ハイパーリンクによつて互ひに結合し合ふ事で自由に閲覽出來るやうにする爲に作られたものだ。
現在は商業利用が許されて格段に利用者が増えたが、だからと言つてインターネットが過去の傳統と斷絶されて、自由の存在しない、無法者の巣窟となつて良いと云ふ理由はない。

喜六郎や「義」のやうな連中は、インターネットを「他人を侮辱して快樂を得る」システムだと思ひ込んでゐる。が、そのやうな無法な行爲は許されない。常識的に考へても犯罪だ。俺はインターネットにも秩序は必要だと信ずるし、だからこそ俺は飽くまでインターネットをインターネットらしく利用しようとして來た。
それが喜六郎らには氣に食はないらしいが、喜六郎らのやつてゐる事はインターネットを殺す行爲だと云ふ事は自覺しておいた方が良い。
喜六郎ら犯罪者的ユーザは、秩序に對して無根據の反感を抱いてゐる。だからこそテロリスト的な行爲を平然と續けられるのだが、それはインターネットの傳統に挑戰するものであり、インターネットを内部から食ひつくし、破壞せんとする事である。

俺は、ウェブであれ現實の社會であれ、一定の秩序が必要であると信じてゐるし、人間は渾沌とした宇宙の中に秩序を欲する存在であると云ふ考へを持つてゐる。福田さんも同じ考へを持つてゐただらうから俺は福田さんを支持し、福田さんに學ばうとしてゐる。
さうした俺になぜ喜六郎が反感を抱くか、「義」が反感を抱くか。彼等は秩序と云ふ觀念それ自體が許せないのだ――と言へば恰好がつくのかも知れないが、しかし何うだらう。喜六郎はそんなに深く物を考へてゐない筈である。喜六郎はただ、愉しみの爲に他人を侮辱してゐるに過ぎない。當人は自分がいつぱしのインテリだと思ひ込み、優秀な思想家である積りで、無能な野嵜を小馬鹿にして、自分の頭の良さを「再認識」しようとしてゐる。喜六郎はナルシストであり、イエスマンに取圍まれて天狗になつてゐる。繰返すが、これは事實を指摘してゐるので、人格攻撃をしてゐるのではない。文藝批評で作家論をやる批評家はゐるが、その行爲自體を人格批判と稱する人間はゐない。それと同じ事だ。喜六郎は何年も何年も執拗に俺を侮辱するだけの内容の「ブログ」を續けてゐる――この事實を根據に、俺は喜六郎を論じたに過ぎない。喜六郎自身が膨大な根據を自ら提示して、自身の人格の低劣さを示し、自身の思想の深みのなさを露呈してゐるのである。喜六郎は、自分自身の信ずるところのものを匿し續けてゐる――が、これだけ膨大な文章を書きながら、「匿してゐるもの」が何も現はれない筈がない。しかし、何も現はれないのなら、喜六郎には何も理想も理念もないのである。喜六郎はただ、愉しみの爲に他人の人格を否定し、他人の發言を罵倒して、喜んでゐるだけである。
アンチの喜六郎に何一つ思想がない――實はアンチ一般に思想がないのである。「信者」と云ふ言ひ方をする事で、アンチは他人を侮辱して快を貪る事を正當化してゐるのであり、そこでどんなに理窟や論理を展開したところでアンチのしてゐる事は快樂の追究に過ぎないのである。斯うしたアンチの行動は、ウェブのいたるところで見られるが、常に「荒し」的なものと見られ、嫌はれてゐる。アンチは自分がひたすら嫌はれてゐる事實を認識するが良いのである。アンチを支持する人間は全て異常な人間である。

俺の場合、自分を支持して呉れてゐる人が異常だと思はない。寧ろ、俺を罵倒する人間に矢鱈と異常な人間が多い事を知つてゐる。
けれども、アンチの喜六郎を支持してゐる人間は全員異常人格者であり、喜六郎を非難してゐる人は全員まともである。