闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「現代仮名遣」の正義と歴史的かなづかひの正義

「現代仮名遣」は、「今の人」にとつて都合の良い、と云ふ意味で「今の人にとつて正義」であるに過ぎない。それは明かに政治的な正義だ。

だが、歴史的かなづかひは、人にとつて都合が良いとか惡いとかを超越してゐる。それは政治の次元を超えた眞理の次元での「正義」だ。

「現代仮名遣」を「支持する」と稱する人々は、その次元の異る「正義」を、同じ「正義」と云ふ「言葉を用ゐる」からと言つて混同し、聯想ゲーム的に「歴史的かなづかひ」を「政治的」なものと極附け、否定する。
言葉の聯想で異る話を結び附ける「聯想ゲーム」的な發想は、言葉の「言靈」を闇雲に信じた非合理的な發想で、現代の人間がする事でない。

しかし、「現代仮名遣」は、「今の人」にとつて、決して「今の言葉」とは言へない。なぜなら――例へば「言う」と我々は言はないからだ。「經營」を我々は「け!・い!・え!・い!」と發音しない。なのに「けいえい」と「書け」と「現代仮名遣」は吾々に高壓的に命ずる。その根據は全くない。ただ「現代仮名遣いは規範であるから国民は黙って従え!」と命ずるのである。
ならば「現代仮名遣」は「正義」の押附けである。

これに對して、歴史的かなづかひは何も命じない。ただ、我々は語の自律性に基いて語をありのまゝに表記するだけである。それが誤つてゐる時、歴史的かなづかひの規則に基づいて我々は誤を正す。それだけである。正義の押附け等と云ふものは何處にもない。或は、人間が歴史的かなづかひに從ふのは、物理の法則に從ふのと同じで、隷屬ではなく、自然な事であり――或は、宿命の不自由さを意識しつゝ、宿命の中に生きる事を意識的に撰擇するのは、寧ろ自由な生き方である。抵抗は不自由な人間だけが出來る事だ。

歴史的かなづかひは、理念的には日本で日本語を文字で書表さうと試みられた時點からずつと存在して來た。それは單純に、「文字と發音とは異つてゐても良い」と云ふ言語の自然なあり方を受容れる事であつた。契沖は、「今の發音」と異る文字を用ゐる理由として「語義」の存在を考へただけだ。實際には「過去の音韻」と云ふ理由があつた訣で、だから「語義」に從ふ、と云ふ契沖の説は誤であつた訣だ。しかし、それは、「過去の音韻」に基く表記を「現代の表記」と「看做してはならない」理由にはならない。そもそも、過去に於てすら、發音と表記が一致した時代は存在しない。發音と表記はずれてゐるのが當り前なのだ。

表音主義者はそれを勘違ひして、發音と表記は一致せねばならないと信じ込んだ。これが誤である事は言ふまでもない。「現代仮名遣」でも發音と表記は一致してゐない。

「現代仮名遣」には何の根據もない――何の根據もない「現代仮名遣」が、ただ國家權力の力によつて、「正義」として押附けられた。これが、「現代仮名遣」派にとつては「認め難い現實」である。彼らは、「押附けられた」事が不滿で仕方がない――だからこそ、自分逹は「押附けられてゐない」と主張せずにゐられない。その爲に、「押附けられた正義」を「現代仮名遣」とは別にでつち上げねばならなかつた。歴史的かなづかひを「明治政府が押附けた正義と云ふ事」にしようと彼らが頻りに主張する、心理的な理由である。

實際には、彼らが「正義」と指摘する「歴史的かなづかひ」は、歴史的かなづかひの理念の面を徹底的に無視する事で初めて出現する、外觀的・形式的=觀念的な「歴史的かなづかひの形骸」に過ぎないものである。「現代仮名遣」を「支持する」と稱する人々は、豫め「嫌なもの・否定すべきもの」となるやうに「歴史的かなづかひ」を歪曲し、その歪曲された「歴史的かなづかひの形骸」を歴史的かなづかひそのものと看做して攻撃し、否定する事で、歴史的かなづかひそのものを否定し去つたものと思ひ込んだ。
彼らの心理では、歴史的かなづかひは「否定されたもの」である――だからこそ、「今さら」歴史的かなづかひを理念的に肯定する意見を、彼らは受容れる事が出來ない。彼らの心理の中にだけ存在する妄想の「嫌な歴史的かなづかひ」を、彼らは否定されたくないのである。「嫌な歴史的かなづかひ」と云ふ妄想を、妄想と指摘され、本當の歴史的かなづかひが良いものであると言はれると、彼らは「妄想と指摘した」と言つて怒る。

繰返すが、文字言語は音聲言語と異るのが當然である――この事實を受容れる必要がある。この事實を受容れるならば――即ち、事實をありのまゝに受容れる態度を人間が取るならば、全ての人が歴史的かなづかひを受容れざるを得ない。
音聲言語に文字言語を一致させようとしつゝ、それが失敗したのを、文字言語の規則と云ふ「例外」によつて正當化した「現代仮名遣」を、現實から目を背けた虚僞の存在として、人は排斥せずにはゐられない。

歴史的かなづかひを正しい假名遣と主張する我々は、實は「歴史的かなづかひの正義」を押附けようとしてゐるのではない。文字言語の自然なあり方をありのまゝに受容れる事を主張してゐるのだし――根本的に、事實をありのまゝに受容れる事を人間の正しい態度だとして「押附けてゐる」のだ。
――が、事實をありのまゝに受容れるのは、全ての人が認めた正義・價値觀ではなかつたか。事實を拒絶するのは惡である、事實を事實としてありのまゝに認めるのは正しい事である。全ての人が、この正しさを認めてゐる筈である。
我々は、既に受容れられてゐる價値觀に基いて、論理の當然の歸結として、歴史的かなづかひを事實として受容れる事が正しい、と言つてゐるに過ぎない。これは正義の押附けではなく、既に受容れられた價値觀を徹底した時に人が當然取るべき態度の指摘である。


「現代仮名遣」を受容れる爲には、「自分にとつて都合の良い事は正しいと言つて良い」と云ふ價値觀を認めてゐなければならない。ところが、全ての人がこの價値觀を認めてゐない。ならば「現代仮名遣」を認める事が出來る價値觀はこの世に存在しない。「現代仮名遣」を支持する事は出來ない筈である。なのに「現代仮名遣」を「正義」だと多くの人が主張する。これはをかしい。
「自分にとつて都合の良い事は正しいと言つて良い」から「自分にとつて都合の良い『現代仮名遣』は正しい」――この理窟を、實は、多くの日本人が、自覺してゐない。「自分にとつて都合の良い『現代仮名遣』は正しいが、自分にとつて都合の良い事を正しいと言ふのは惡い事だ」と多くの人が當り前のやうに言つてゐる。俺を非難する人も屡々、俺が「自分にとつて都合のいい事を言つてゐる」と言つて非難する。が、その人は、自分にとつて都合のいい「現代仮名遣」を使ふのを惡だと思つてゐない。


歴史的かなづかひの正しさを主張するのは、自分にとつて都合のいいものとは異る・公正で客觀的な規範の存在を認めるべき事を主張するのである。


「現代仮名遣」が「正しい」として押附けられながら、それが惡であると自覺されずに多くの人に用ゐられてゐる。さう云ふ現状に對し、反省を促す意味で、歴史的かなづかひの正しさを強調する必要がある。その爲に、「元祖」「本家」と同樣、「正」と稱する。これは傲慢でも偏狹でもない。事實をありのまゝに受容れるべきだ、と言つてゐるのだから、偏狹でも傲慢でもある訣がない。スローガンとしての「正字正かな」と云ふ言ひ方を政治的だと非難する人々がゐるが、そもそも「現代仮名遣」と言ひ、「現代」を強調してゐるのが政治的なのであつて、さうした政治的壓力があつてこそ「正假名遣」を名乘るのだから、政治的であつて構はないし、「正字正かな」の政治的である事を非難したければ、その前に自分逹が政治的に「現代仮名遣」を支持してゐる事を自己批判して反省してゐなければならない。
何れにせよ、「現代仮名遣」を使用し續ける事は不可である。「正字正かな」を非難するのはナンセンスである。