闇黒日記?

にゃもち大いに語る

正字正かなの立場について

「旧字旧かな派」の人、その他の「現代仮名遣」容認派の人々から、正字正かなと言ふのはそれ自體が傲慢であり偏狹であるぞ、と非難されたので、反論したい。なぜなら、偏狹なのは「旧字旧かなと言ふ事しか認めない」「現代人は現代の仮名遣いと称するものしか使う事を認めない」と極附ける人々であり、さうした人々が執拗に正字正かなの「傲慢」「偏狹」を宣傳してゐる状況があるからだ。
正字正かなの主張は、偏狹でも傲慢でもない、と云ふ事實を傳へなければならない。

先づ、「現代仮名遣」とは何か、を説明せねばなるまい。
「現代仮名遣」を支持する主張は、「現代」の人間が、「自分の書き方」をこそ「正義である」として、「自分逹の正義」を主張したものである。これは大變傲慢な主張である。
「自分のやり方」を、ただ「自分のやり方」であるからと言つて、「正しい」ものとして、絶對化する事が、傲慢でない筈がなからう。

一方、我々正字正かな派の人間は、「自己主張」を抛棄する。自身に對して、正しさを主張して誤を指摘する、外部の存在としての正義を認める。自分が書く書き方に對して、正字正かなの規範は、それ自身の存在を以て、規制を加へ、我々の誤を批判する。
我々は、自らの書き方を誤と指摘され、恥をかく事を認める。正字正かなと云ふ、我々に恥をかかせる外部の正義が存在する事を認めるのである。

逆に言へば、「現代仮名遣」と云ふのは、我々が書く書き方を、それ自體として正義として主張する事である。それは、外部の正義からの批判を拒絶し、自らが恥をかくのを囘避する事を肯定するものである。一種の逃避である。

我々は、現實に誤る事を認める。それは自身の誤を正當化する事ではない。なぜなら、我々は、恥をかく事を義務として受容れるからである。我々に恥をかかせ、謙虚にさせる存在――それが正字正かなと云ふ、我々正字正かな派と云ふ人間の外部にあるものである。正字正かなの理念と、正字正かな派と云ふ人間とは、別個の存在である。
正字正かな派は、「正字正かなの權威」なるものを恃んで、他者を打倒する事を目的としてゐない。正字正かなと云ふ理念は、人間から獨立した理念であり、正字正かな派も、さうでない人間も、區別無く、誤があれば批判する。ただ我々正字正かな派がさうでない人々と違ふのは、さうした外部の公正な理念の存在を、容認する――と言ふより、積極的に受容れ、支持する點だけである。

「現代仮名遣」に理念は存在しない。「現代の日本人」が書くのに「便利」であると云ふ大義名分の下、導入された「歴史的かなづかひに非ざるもの」であるが、便利であると云ふのは理念ではない。「常用漢字」にしても「現代仮名遣」にしても、原則として「大體現代の發音通り」と言つてゐるが、「大體」と云ふ曖昧な言ひ方が胡麻かしであり、「發音通り」にならない部分は歴史的かなづかひの規則を用ゐて説明するが、それはダブルスタンダードである。さうしたダブルスタンダードを糊塗し、隱蔽する爲に、「現代的」と云ふスローガンを用ゐてゐるに過ぎない。そこでは「我々の正義」として我々現代人に媚びる態度だけが存在するのであつて、現實に内閣告示として世に行はれて以來、半世紀もの「歴史」を經て一切變化を受容れてゐない「現代仮名遣」に「現代的」な性質があると認める事は出來ない。

歴史的かなづかひは、原則として「語の自律性を尊重する」と云ふものである。もちろん、現代の口語が文字と發音の乖離を生じてゐる事實があるが、それを歴史的かなづかひの立場は、當然の事・言語の現實として容認する。なぜなら、過去において――規範としてのかなづかひについては、定家以來――文字言語と發音との乖離が事實として認められて來た事實がある。そもそも、文字の發生以來、發音と文字とは常に乖離して來た。さうした現實を現實として受容れるのが歴史的かなづかひの立場である。
文字と發音の乖離を否定し、言はゞ「現實と理想の完全一致」を叫ぶ「現代仮名遣」の空想的理想主義――しかも、その理想の實現し得ないのを、尤もらしく現實を以て言ひ訣する、實は折衷的理想主義――を、歴史的かなづかひは否定する。歴史的かなづかひは、飽くまで文字と發音との乖離を、ありのまゝに認めるものである。

歴史的かなづかひを否定する「現代仮名遣」の專制的支配が戰後半世紀以上に亙つて續いてゐる。斯うした現状において、歴史的かなづかひの復興と、「現代仮名遣」の專横への抵抗を示す目的で、歴史的かなづかひの正統性を強調し、正しい漢字への信頼の表明も含めて、「正字正かなづかひ」と稱する事を、我々正字正かな派は躊躇しない。
歴史的かなづかひの正統性を肯定しつゝ、我々の時代たる現代と云ふものに固執する傲慢と偏狹とを指彈する――その爲に「正字正かな」と云ふスローガンを用ゐるのは、便宜であるが、便宜それ自體を否定するのならば、「現代仮名遣」の便宜主義こそ先づ否定されるべきであらう。

我々正字正かな派が、「現代仮名遣」の「便宜」に對して、歴史的かなづかひの「正統」「正義」を主張するのは、一面で對抗上の理由である。が、さうしたアンチ的なだけの態度を保持する事を我々は望まない。
我々としては、ただ、正字正かなの理念を認める事を要求するのみであつて、現實に我々が書く文章の完全な正確さを求めるものではない。
「現代仮名遣」の正しさを我々は認めないが、既に流布してゐる事實は認めざるを得ない。現實と言ふならば、國家・政府が「現代仮名遣」を支持し、教育現場で用ゐてゐる現實のある事を認めざるを得ない。よつて、國家・政府の態度を批判しつゝも、さうした教育によつて「現代仮名遣」でしか書けない人々が存在する事實を、我々は事實として受容れる。しかし、さうした書き方は飽くまで便宜であり、便宜である以上、正義として主張する事が出來ない事實を指摘する。正統への復歸を我々は主張するが、當座、「現代仮名遣」で書く人々を、「現代仮名遣」で書いてゐると云ふだけの理由で非難・攻撃する事を我々はしない。ただ、「現代仮名遣」を「正義」として押附け、それに對して歴史的かなづかひの正義を否定する二重基準を平然と主張する人々を非難するだけである。