闇黒日記?

にゃもち大いに語る

川島武宣『「科学としての法律学」とその発展』(岩波書店)について(一)

擬似科学批判」としての正かな派の立場 - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ
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國語研究が科學である事について述べたところ、爺なる人に「それは果たして本當に科學か?」と詰め寄られ、執拗に一箇月以上も追究され續けた。私は、決して深く考へて記事を書いた訣でないから、言ひ訣に言ひ訣を重ねるやうな形で反論せざるを得ず、しかも忙しかつたから逃げ腰になつてしまつて非道い事になつた。

しかし、爺なる人が「ガハハ」と人の事を嘲笑ひ續けたからと言つて、こちらの主張が間違つてゐる證據にはならない。爺は「野嵜が説明できないから野嵜の主張は誤である」と言つたが、野嵜が説明出來ようが出來まいがそんな事は何の證明にもならず――實は野嵜はきちんと説明してゐたのであり、その説明を爺が頑として受附けなかつただけであるが――國語研究は明かに科學である。

先日の古本市で川島武宣『「科学としての法律学」とその発展』(岩波書店)を見附けて買つて來た。
私「も」法律學が解釋學だと思つてゐたのであり、實際、さう云ふ風に思つてゐる法律の專門家・研究者・法學部の学生も日本には多かつたさうであるが、しかし、それは日本の特殊事情に過ぎない。
ドイツや日本では、體系的な法典が存在し、法律學においてはそれを解釋する事に重きを置いてゐる。けれども、判例主義をとり、コモン・ローの原則が支配的であるイギリスやアメリカにおいては、過去の判決を觀察して裁判規範を發見し、理論化・體系化する實用法學が法學の主流である。(一九五五年の論文である點には氣を附ける必要がある)

川島氏は、社會的に存在する價値・法的價値の存在を意識し、法的價値判斷の客觀性が重要である事を指摘する。裁判官は、個人的・主觀的・恣意的な價値判斷を下してはならず、その裁判官が奉仕すべき價値體系に從つたものでなければならない。
ただし、その價値體系と言ふものは、社會における價値體系であるから、「相互に矛盾のない統一体となろうとする力がはたらいている」けれども、同時に、「どのような社会にも対立し矛盾する利害があり、それにもとづいて、対立し矛盾する価値体系が同時に存在する」から、「一つの統一された調和として表象されるが、現実には、対立し矛盾する諸々の価値体系に支えられた諸々の力の均衡ないし運動の過程」としてのみあり得る。
裁判官の裁判における價値判斷は、だからこそ、より根本的でより基本的な法的價値と矛盾しないやうになされねばならないと川島氏は述べる。

法的價値判斷には、優れた法的感覺が必要ではあるが、しかし感覺のみの基いた判斷は、主觀的なものとならざるを得ない。或判斷が他の判断から「見解の相違」として方附けられる事となる。
だから、法的價値判斷を合理化する事が必要となる。
その爲には、より基本的・より根本的な價値からより抹消的な價値まで、階層的に存在する價値の體系を明かにする事と、技術的に個々の價値判斷を合理化する事が必要となる。斯うなると、主觀的な法的感覺のみならず、社會關係の客觀的な分析が要請される事になる。これは一種の社會學的な分析であるが、實踐的な目的に基く分析であり、「社會工學的技術の爲の分析」である。

川島氏は、續いて、「法のことば的技術」について論ずる。法の條文の持つ特殊な形式の論理(法的論理構成)や、法的價値判斷の結果を傳達する手段としての法の條文についての檢討である。法の有用性に關する議論であるが詳述しない。

(續く)