川島武宣『「科学としての法律学」とその発展』(岩波書店)について(二)
(承前)
「法のことば的技術」と云ふのは、裁判の際に用ゐられる論理構成、或は、法律の論理構成を指して言ふ。
裁判において或種の結論に話を持つて行く爲にもつともらしく法律を解釋して辻褄を合せる「三百代言」的詭辯の技術、或は、政府が權力を濫用すべく曖昧な法を作成する技術――確かにそのやうなものも存在する。
けれども、さうしたものを扱ふのが法律學だとしたら――例へば、裁判で詭辯を使つて勝つ技術を身につけるのが法律學だとしたら――それはとても受容れられたものではない。
けれども、さうしたものを扱ふのが法律學だとしたら――例へば、裁判で詭辯を使つて勝つ技術を身につけるのが法律學だとしたら――それはとても受容れられたものではない。
裁判にしても立法にしても、日常の言葉とは違ふ用語・言ひ方が存在し、それは「秘傳」のやうなものに思はれるかも知れないが、それらは所詮、概念を正確に表はし、論理構成を精密にする爲の技術である。
これらの技術は、「社會へはたらきかける技術」であり、法學は「社會工學」の一種であると著者は述べる。「そのような技術性の中に、法についての科學的研究への要求が内在していること」も明かだと言ふのである。
近代においては、社會の合理化が要請され、多くの社會科學がより客觀的で論理的な方向に發展した。その中でも法律學(實用法學)は最も早く發展したものである。
(續く)