闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「経験科学としての言語学」

例のG氏問題のつづき……。


広義には仮説検証法による言語の研究はすべて理論言語学ということができ、文献学的伝統や哲学的伝統などの中にしばしばこれに相当する研究を見出すことができるが、生成言語学を指すのが慣用となっている。

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なほ、私は言語學・國語學の專門家ではないから、G氏が要求したやうな「具體的な假説」の提示は出來ない。だから野嵜が敗北したと言ひたければG氏やKirokuro氏は勝手に言へばいいが、個人攻撃をして勝利したところで、その人の言つてゐる事の正邪とは關係がない事實は知つておくべきだらう。二人とも――或はKirokuro氏の取卷きを含めて――個人を貶めて遊ぶ事にのみ興味があるやうで、眞實が何であるかには全く興味がないらしいが、問題は「何が正しいか」であり、そこで個人の存在を云々するのは、問題の核心から目を逸らす事でしかない。

★或種の國語研究が科學的な研究である事實は認められてゐる。

G氏が如何に大袈裟に「規範は科學ではない」と主張しても――そもそもG氏は、をかしな風に話を歪曲してゐるのだから、G氏の指摘はナンセンスなのであり、また、そのG氏が執拗に同じドグマを繰返し書込んで、無理な要求を繰返した態度の惡さを理由に野嵜はコメント欄を閉ぢたに過ぎない。それをKirokuro氏が過去の野嵜のジョーク・レトリックを持出し、「野嵜の矛盾」と極附け、宣傳してゐるのは、Kirokuro氏の價値觀に合致しない事を言つてゐる野嵜を潰す爲にしてゐる議論であり、問題とは何の關係のない部分で揚げ足を取つてゐるだけの事である。問題は國語の研究とは如何なる性質のものであるか、であり、Kirokuro氏がそれを「あなたのルール」と言つて無視してゐるのは、Kirokuro氏が物事の本質に興味を持たない、政治的な人間である證據である。

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Kirokuro氏が、揚げ足取りと煽りを目的にトラックバックを打込んで來たので、こちらもそれなりの反應をしただけだが、その「反應」を、野嵜の自律的な行動と歪曲して宣傳するのがKirokuro氏の常套手段である。Kirokuro氏の取卷きが野嵜の行動を「荒し」であるかのやうに言つてゐたが、Kirokuro氏が私にちよつかいを出して來なければ良かつただけの事だ。
私は何も惡い事をしてゐない。澤山書込んだG氏が書込めないやうにした野嵜を非難したKirokuro氏であるから、野嵜がKirokuro氏の「ブログ」に澤山コメントしても「態度が惡いからアク禁にする」等と言へない筈である。
Kirokuro氏が「澤山コメントする」=「態度が惡い」と言ひたいのなら、それを理由に私がG氏のコメントを書込めないやうにしたのをKirokuro氏が非難したのは矛盾である。もちろん、Kirokuro氏は、自分のやつてゐる事が矛盾であつても、「靜觀」の立場に逃込む事で、當座非難をスルーするであらう。しかし、それを繰返してゐる限り、「Kirokuro氏は信用ならない人物である」と云ふイメージは、ウェブに廣まり續けるだけである。