闇黒日記?

にゃもち大いに語る

たかが郵政――政治主義のおぞましさ

Kirokuroがしなければいいのに、人を煽るだけの目的の記事を書いて、トラックバックを打込んで呉れたから、それに應じて私もKirokuroの「ブログ」にいろいろ書込んで來たのだけれども、一晩で飽きてしまつたので今夜は半分投げやりになつて、幾つかコメントしただけで、最後に一言捨臺詞を殘して好い加減に書くのをやめてしまつた。
いろいろ言つたけれども、最後に何を書いたかといふと――。

★郵政なんてつまらない事でぷんぷん怒る人もゐるけれども云々

Kirokuroと、あとそこにやつてきたレッドクリフとか云ふ人に言つてやつたのだが、多分彼等は私の言葉に呆れてゐる事と思ふ。けれども、斯う云ふ事を一々言ふから私は嫌はれるのだらう。私は彼等にとつて一番痛いところを衝いた積りでゐるのだが、彼等には多分、私の言葉がただの誹謗にしか見えないのではないかと思ふ。

Kirokuroは、小林よしのりが、漫畫のコマの欄外で郵政に就いて觸れて、何かKirokuroの氣に入らない事を言つたらしい。それで小林を口汚くKirokuroは罵つてゐるのだけれども――小林よしのりが絶對に間違つてゐて、Kirokuroが絶對に正しいなんて、そんな事が、殊郵政の問題なんてもので、あり得るのか。
そもそも、政治の問題で、「絶對に正しい」事は、あり得ない。これはKirokuroも首肯する事だらう。だが、ならば、政治問題で、相手が間違つてゐると言つて非難する事は、何處まで許されるか。
民主主義の社會では、基本的に政治の意見はどれも相對的な正しさしか持たないものと看做される。「これならば確實」と云ふものが「ない」のだから、正しさを基準に我々は政策を決める事が出來ない。けれども、我々は當座、なんとか世の中を運營して行かなければならない。だから、多數決で、當座の方針を決める訣だ。一往、期限を切つて、それまでに或政策が實施されて效果を擧げたか否か、世間の人が檢討出來るやうにする。政策が巧く行つてゐなかつたのなら、政權を擔當してゐた人々は失脚して、別のアイデアを出した人が取つて代る――それを制度化したのが民主主義だ。

言論の自由と云ふ事も、多くの人がいろいろ言つてみて、互ひに批判し合つて、どれが「もつともらしい」意見かを、世間の人が見定められるやうにする爲にある。「自由に言ふ」のを目的にするのではなくて、言つた先に「自由な判斷」を期待するのである。
科學の場合、反證を擧げる事で、或假説の誤が決定的に明かにされる事はある。ところが、政治の場合、決定的な反證を擧げる事は不可能であり、假説として提示される主張は、何處まで行つても不確かなものでしかあり得ない。政治に於ては、勿論「絶對の間違ひ」が、「ある」事もあるが、「ない」事の方が遙かに多い。全ての主張は相對的な正しさを持つ。

ならば、政治の場で、自分の意見に固執して、他人の意見を徹底的に罵倒する、なんて事は、意味がないのである。精々、自分の意見の方が「よりもつともらしい」と主張し、相手の意見が「餘りもつともらしくない」事を言へる程度である。しかし、だからこそ、政治に淫してゐる人々は、他人を罵倒するのに感情的になるのである。
Kirokuroが小林氏を罵倒する文句は、激しさ以上に、汚らしさを、讀み手に印象づける。Kirokuro自身、小林氏の動機を「邪推」してゐると言つてゐるが――根據ナシに小林氏を責めなければならない自分の「不利」を自覺してゐて、それゆゑに、Kirokuroは、虚勢を張つて、居丈高な言葉遣ひをせざるを得ない訣である。

心理的に壓倒的に優位であるのは、自分が正しいと確信してゐるからで、Kirokuroが私を嘲つて、餘裕かましてゐるのは、野嵜が確實に間違つてゐると判つてゐる事を言つてゐるからである。が、そんなKirokuroが、激しい言葉遣ひになる事がある。小林よしのりに對してが、明かにさうだし、他に郵政關係で氣に入らない人間に對しても、さうである。
政治主義的な態度をとつてゐるKirokuroだが、矢張り政治的な問題については確實な事が言へないのを自覺せざるを得ない。けれども、それは、自分が確實な間違ひを言はないで濟む領域でもある事を、Kirokuroは知つてゐる。政治主義の立場をとつて見せるのは、Kirokuroにとつては、矢張り一種の「逃げ」である。Kirokuroは、負けたくないから、正邪が決定的に決まる問題には口を挾まず、結論が出た時點でしやしやり出て、恰もレフェリーみたいな恰好をして、場を仕切る事で、自己の優越感を滿たす。一方、政治の場は、勝ち負けは決定的に決まらないから、それはそれでKirokuroにとつては都合の良い場である。けれども、決定的に正しい事もないのだから、Kirokuroは決定的に勝つ事も出來ない。だからKirokuroは、感情的に敵を罵る「狼狽ぶり」を、天下に晒さざるを得ない訣である。

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一方で、防衞問題においては、技術に關する知識が必須となる。戰前の日本軍は、あれほどまでに非科學的な精神論をふりまはしながら、それでも日本の社會に於て最も論理的で科學的であらざるを得なかつた――さう福田恆存は指摘してゐる。軍隊は、もちろん、兵士の士気を考へない訣には行かないが、兵士の持つ兵器の事を知らないでは、御話にならない。知識が必要である訣だ。そして兵器は、大體、物理法則に從ふ。飛行機が飛ぶにも、ミサイルが飛ぶにも、精神は關係ない。兵器の知識は科學の知識・技術の知識であり、そこでは政治の問題のやうな曖昧さは、必ずしも「ない」。
防衞問題を論ずるには、兵器の問題を考慮しなければならない。そして、この點で、政治問題を論ずるのと大きく違ふ點があるのである。そこでは、無知に基いた好い加減な主張は、絶對の誤として、排除し得る場合が、結構「ある」のだ。
松原正氏が、政治主義を排しながら、防衞論には永年關はつたのも、斯うした理由がある。その姿勢を政治的に嫌ふ人は多い訣だが、松原氏の防衞論に眞つ向から立向かへる程の知識を持つた平和主義者はゐない。ゐる訣がない。だからこそ、松原氏に反感を持つ人は必ず「裏工作」に走る訣で、「松原信者」だの何だのと言つて側面から足を引張るのもさうした政治的な「工作」の一環だが――それが政治なら、政治とは何と嫌なものだらうか。