闇黒日記?

にゃもち大いに語る

本心・意圖を臆測で極附けるのを正當化する爺氏の理論

爺氏は、「自然科學=客觀的」「人文科學=主觀的」と云ふ考へ方の持主だ。
けれども「主觀的」=「主觀的に何でも自分に都合良く決めていい」だと思ひ込んでゐる邊、相當非道い勘違ひをしてゐると言はざるを得ない。

http://blogs.yahoo.co.jp/gahahayoumustbekidding/453107.html

{{{:
「假名遣ひは科学的であるべき」がそもそも野嵜氏の思ひ込みに過ぎない。假名遣ひのやうな「規範」が「科学的」でなければならない理由はない。むしろ、「整合性を持つ(無矛盾である)」「学び易い」「適応性が有る」等の方が重要であらう。
}}}

既に述べた通り、國語と云ふものをありのまゝに受止める態度こそが必要なのであり、それを爺氏は「整合性を持つやうに・學び易いやうに・適應性があるやうに改變する」事は良い事だと主張するのである。その爲には、國語がかがくであつては不都合である――だから爺氏は意地でも國語を非科學的で主觀によつて勝手に改變してよいものに「しなければならない」。

爺氏は、主觀と云ふものは、主觀で極附けて良いものだと思ひ込んでゐる。主觀もまた一種の客觀的事實であるのであり、客觀的に見定めなければならないものであるのだが、爺氏は自分に都合良く他人の動機や意圖を極附けていいと本氣で信じてゐる。

http://blogs.yahoo.co.jp/gahahayoumustbekidding/941449.html

{{{:
また、「現行憲法無効論を攻撃する爺氏の政治的意圖」ねえ……。そんなに厳かに推理・宣言して頂かなくても、現行憲法擁護の爺の立場(本心)は自明だと思ひますし、はっきり「政治的意圖をもって」野嵜さんの「無効論」を攻撃してゐるのですよ。そもそも、憲法を論うのに政治的意圖が無い、等と言ふ事があるでせうか。「感情的な動機をカムフラージュするための仮面」は言ひ得て妙ですが、むしろ「政治的動機とそれを正当化する論拠」と言ふべきでせう。ところで、野嵜さんの「現行憲法無効論」の動機(本心・意圖)は、「福田氏がさう言ってるから」もしくは「(野嵜さんご本人が)天皇主権(親政)万歳と思つてゐる」のどちらでせうか。
}}}

目的が政治的であつても、論證なり何なりの方法が正當であれば、結果として學問的に「役に立つ」事はあり得る。だが、爺氏のやうな態度では、ろくな結果に繋がらない。なぜなら、爺氏の考へ方が根本的に間違つてをり、それゆゑ爺氏の檢討の方法が根本的に間違つてゐるからである。
爺氏は、これまでにも、他人の主張を微妙に歪曲し、自分の理解に基いて相手の主張を極附ける誤を冒して來た。けれども、主觀・價値觀に關する議論で、さうした誤は「誤ではない」と、爺氏は本氣で言ふのである。
けれども、主觀や價値觀も、人の思想の中にあると云ふ意味で主觀である一方、思想それ自體を扱ふ學問的觀點では、主觀的事實であり、一定の客觀性を認められる。

實は、最初に述べたやうな單純な二分法が誤なのであつて、主觀もまた客觀性を持ち、客觀的な檢討の對象となる。だからこそ、宗教學にしても歴史學にしても、或は法學にしても、科學として成立ち、國語學も科學として成立つ訣である。もちろん、觀察對象としての主觀は、客觀性を保つ爲に、愼重に扱はれねばならない。その爲、自然科學よりも人文科學の方が、職人的な技術が要求されると言はざるを得ない。自然科學が單純に法則化して誰にでも論理を扱へるやうにしてゐるのと違ひ、人文科學は現在でも研究者に職人技を要求してゐる。
それだけに、現在も人文科學の領域では不毛な議論・論戰が絶えないのであり、それは一流の研究者の間でも依然として續いてゐるのであるが、だからといつて人文科學が科學の中から彈き出されねばならないとする理由はない。
爺氏は「野嵜一人が假説を假説の形で提示する事が出來なかつた。だから人文科學と云ふ學問が全體として科學の名で呼ばれてはならないものだと確定した」と言つてゐるが――訣のわからない主張である。
野嵜の過ちを根據にする記事は、野嵜個人を嘲笑するものとしてなら理解できるが、學問の性質を一般に規定するものとしては絶對に理解出來ない。
何より、山田孝雄橋本進吉時枝誠記大野晋、と云つた、日本を代表する國語學者が全員、國語學は科學的であらねばならないし、さうあるものであると信じてゐたのだ。爺氏は、彼等から直截的な言葉を引用できなければ駄目だと言つたが、さう云ふ單純な論證の仕方は許されない。なぜ爺氏は、單純に引用できる事が必要だと考へたのだらうか。自然科學の方法論を、淺く理解した結果と言はざるを得ない。

---
しかし、私を非難・中傷する人々の發想は、例外なく爺氏の發想と同じなのである。Kirokuroにしても、野嵜を非難していいと考へる・粘着行爲を正當化する理由は、「政治的意圖」にあるのだ。
斯うして見ると、客觀的に物事に對し、對象を扱はうとする、私・野嵜のやうな態度の人間の價値觀と、主觀的に物事を見、對象を利用しようとする、爺氏やKirokuro、或は何處ぞの某ブロガーの人の價値觀とは、單に衝突してゐるのであり――野嵜の價値觀が、彼等主觀で物事を極附け、自分の價値觀に都合良く事實を歪曲し、ナルシシズムを滿足する爲に必要な物の見方をする人々にとつて、邪魔である爲に、彼等から排除の對象とされてゐるのだ、と云ふ事は、推測出來る。
興味深い事に、野嵜を攻撃する人々が、自己を滅却して理想に殉ずるとか、自己を抛棄してより立派な人の思想を全面的に受容れるとかいつた考へ方を、唾棄すべきものと看做してゐる事實がある。Kirokuroは、「理想より人」と言つたが、要は「人=自分」なのであつて、自分を守りたいだけである。さう云ふ自己愛の人=ナルシストだからこそ、私のやうな考へ方をする人間を何とかして排除しなければならぬと考へる。

私にしてみれば、Kirokuroが嘲笑するやうな・爺氏が嫌惡するやうな「偉い人に縋りつく弱い人間」の方が、自分自身に縋りつくナルシストより、遙かに増しである。ナルシストは信者よりも遙かにキモい存在である。