闇黒日記?

にゃもち大いに語る

主觀に對する學問上の態度

或學問が科學的かさうでないかなんて、感覺で解るだらうと思ふのだが――感覺だからこそ解らないのだらうか。

國語學が扱ふものは、主觀だと爺氏は言ひ、主觀だから科學でないと言ふ。だが、主觀も、觀察對象として客觀性が認められるのなら、客觀的事實だ。
「主觀は客觀である」――さう要約して、Kirokuroなんかは爆笑するのだらうが、福田恆存が言つてゐるのだから間違ひはない(わらひ)。

觀察對象としての價値觀について客觀性が認められる事は、既に宗教學に觸れた際に述べた。
觀察主體の主觀が觀察結果の主觀性に繋がりながら、それでもより客觀的な眞實を追究しなければならない事は、歴史學の常識として知られてゐる。堀米庸三は、さうした主観性を排除する爲にも「自分自身を知る」事が必要であると述べてゐる(堀米庸三『歴史をみる眼』)。自己の主觀を自覺し、その上で、主觀的な觀察結果の報告から主觀を意圖的に排除する態度が、歴史學の研究者には求められる、と云ふ事だ。

ありのまゝに見る、と云ふ事が、客觀的な觀察を行ふ研究者には常に要請される。その爲に、例へば現象學なる學問の方法がフッサール他によつて唱へられたが、多くのややこしい理論の爲に却つて解り難くなつてしまつてゐる。けれども、主觀を通して客觀の世界を觀察せざるを得ない人間が、如何に主觀を排して客觀的に物を見るか、を考へるのは、必要な事だ。エルンスト・マッハが、外部を觀察する人間の視界を描いて、眼窩で區切られ、下の方に鼻でかくれた部分がある繪を著書に載せた事は、現象學の入門書のどれかで見たが、斯うした事實までも改めて自覺しない事には屡々忘れられ勝ちなのだ。
松原正氏の授業で、「御芝居を見に行つて、我々は先づ最初に何を見るか」と尋ねられた。答は「幕」であるが、案外斯う云ふ單純な答は、判らないものだ。けれども、舞臺で、芝居が始まるまで幕が降りてゐる事は、大變重要な事實である。
――斯うした「ありのまゝに見る」技術は、訓練をしなければ養はれない。私だつて、教へられた幾つかのパターンを知つてゐるに過ぎない。專門に學んだ人間ではないのだから、私に何もかも教へろと要求されても、應へられない。その點では、日本の教育が一般に不十分であると言ふ事は「ある」だらう。が、現實問題として、我々としては、自分逹の教育が不十分である事實を一往知つておく事で滿足しておくしかない。
が、さうなると、完全な教育下に於ては、或種のより完全な技術が學問の中で前提される、と云ふ事は、推測――想像して良い。さうしたより完全な形態の學問に於て、如何なる方法がとられ、如何なる觀察がなされて、如何なる研究が行はれるか。それを我々は前提して、學問に關しては議論しなければならない。その際に、私は、國語なるものの現象もまた、主觀的であると同時に、觀察對象として一定の客觀性を持つものと看做し得るし、それを技術的に可能とする職人技を研究者が身につけてゐるものと看做す。
一種の信頼であるが、さうした信頼を「しない」立場が爺氏の立場でありKirokuroの立場である。けれども、彼等の立場は、彼等の想像力の缺如を示すものであり、彼等の「科學精神」やら「批判精神」やらの存在を示すものではあり得ない。なぜなら、理念・理想の學問を論ずるのに、さうした疑惑ばかりを竝べ立てるのは、論じ方として間違つてゐるからである。そして、ありとあらゆる學問は、理想を目指し、目指すべき目標としての理念を持つてゐる――それもまた主觀的「事實」である訣で、客觀的に論ずる事の出來る對象である。

――が、さうした學問の理念の存在を認めず、「學問の獨立」を認めないのが、政治主義的な事を當り前の態度と看做す、Kirokuroや爺氏のやうな人々である。私は彼等のさうした態度に反對である。