闇黒日記?

にゃもち大いに語る

單純に「かなづかひ」は「規範」だと言へない事


既に自分が何を書いたかまるで忘れてゐるので、復習になつた。

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爺氏は、歴史的かなづかひとしての定家かなづかひと契沖のかなづかひが、規範として「作られた」と考へてゐる。けれども、實際には、定家も契冲も、「かなづかひは本來の日本語の書き方に基くべきものだ」と考へ、純粹に「本來の日本語の書き方」を研究した。それは字音假名遣の宣長もさう。
だから、「かなづかひ研究」は客觀的な研究なのであり、「價値觀の研究だから主觀的な研究である」と主張する爺氏は間違つてゐる。
ところが、爺氏は、「かなづかひは規範である。規範を研究すると野嵜は言つたのだから、そこで科學的と云ふ言葉を使ふのはをかしい」と、理窟を言つてゐる。理窟ならば何うにでも組立てられると云ふだけの事だ。
定家も契冲も、客觀的に日本語を眺めたのであり、客觀的に日本語の本來の姿を明かにしようとしたのであつて、それは客觀的な研究であつた。その客觀的な研究の結果を、そつくりそのまゝ規範として採用したのであつて、規範であるがゆゑに主觀的なものであるとする爺氏の認識は間違つてゐる。

爺氏の言ひ方だと、定家も契冲も、美しい體系を作らうとしてかなづかひを創作した事になる。しかし、さう云ふ事實は存在しない。爺氏の假説は、事實によつて否定されてゐる。