闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「自分本位」の七鍵氏のずるさ

http://www.7key.jp/diary/list/2009_09c_23_04
人間だれしも自分本位なものです、自分本位な感覺はなかなかゼロにはなりません。特に、意見といふものは自分本位のかたまりのやうなもので、それを、知人であれ親友であれ、見知らぬ他人であれ、ぶつける際には、先ずはそれが自分本位であることを理解しなければならないのです。百個あるうちの一個が自分本位なのではありません、濃度のやうなものといへば理解していただけるでせうか。自分が相手本位でものを考へられてゐると感じるのは勝手ですが、百に一つくらゐは自分本位が混じつてゐるものです。自分以外に意見をいふ際は、氣をつけなければなりませんね、お互ひ。
むしろ、議論――正當性の押し付けあひ――して何か結論が出る、それは非常に拙いことだと思ひます。これは持論なのですが。人はなかなか自身の意見を變へるものではありません、むしろ無理矢理變へやうとすると、何かしらわだかまりが殘るものです。以前、とは言つても最近、書いた記憶があるのですが、改めていひますと、正しいといふ感覺は他人に押し付けるものではありません、自分の正當性は自分で判斷し、その「正しい」を聞いた者はその人自身が正しいか否か判斷をするものです。むしろ、正しいとの感覺は共有すべきものであつて、感覺が違ふもの同士が、これが正しい、と言ひ合つたくらゐでは、相手の價値觀は變はりません。特にwebといふものは。面と向つて話をしてゐるのではありませんし、お互ひ文章がつたない部分もあるかも知れません。つまり、私の言はうとしてゐることの全てがSuckyさんに傳はらないでせうし、逆も然り。そのやうな状況で正しいことを押し付けあふ行爲は、人によつては自己滿足を得るでせうし、暇つぶしになるかも知れませんが、私は、webで正當性をぶつけあつて何か得られるとは思つてゐません、むしろ不利點しか見付かりません。

私は大變疑問に思ふのだが――斯う云ふ七鍵氏の個人的な餘りに個人的な價値觀が、何うして一方的に押附けられなければならないのか。

七鍵氏は、「意見は全て自分本位のものであり、正しいと思つてゐてもそれは自分だけが正しいと思つてゐるに過ぎないものである」と主張し、それを「絶對の眞理」として他人に押附けようとしてゐる。これが理解出來ない。
この七鍵氏の主張も、所詮は七鍵氏個人の主張に過ぎない――それは、七鍵氏の主張それ自身に含まれる論理が示してゐる。七鍵氏のこの主張もまた、七鍵氏だけが「正しい」と思つてゐるに過ぎないものだ。

だとしたら、七鍵氏が押附けて來る「他人と議論するな、特にウェブでは」と云ふ價値觀を、七鍵氏以外の人間が受容れる必要はないのであり、七鍵氏と議論しようとするのを七鍵氏は禁止する事が出來ない。

★七鍵氏の主張は、それ自體の論理の爲に、七鍵氏の主觀的な願望を客觀的に否定し、七鍵氏を裏切るのだ。

論理は押附けではない。當り前の話だ。主觀的な價値觀も、客觀的な論理の前に敗北する。七鍵氏は、それが解らない――と言ふより、それを受容れたくない。だからこそ、主觀的な餘りに主觀的な主張を、恰も客觀的な論理のやうに見せかけ、他人に押附けつゝ、自分は他人が示した論理を囘避しようとする。
けれども、論理によつて正當性は明かになる。そして、その正當性を受容れるのに、「わだかまり」を覺える事は、何の意味もない。いくら「わだかまり」が「ある」からと言つて、自分が間違つてゐるなら、相手の言つてゐる正しい事を受容れるしかないではないか。

そもそも、客觀的に正しい事が「ある」と云ふ事實を、七鍵氏は認めたくないのだ。だから全ての意見を恰も「主觀的」であるかのやうに言ひ做し、それによつて價値相對主義を「眞實」のものに見せかけ――それによつて七鍵氏は自分が敗北しないやうに自己正當化をはかつてゐる。
全ての價値相對主義には「他人に負けない爲の自己辯護」の意圖が含まれてゐる――斯う一般論のやうに言ふと、七鍵氏は「言過ぎだ」と言返したくなるだらう。けれども、七鍵氏自身が言つてゐるのだ。「人間だれしも自分本位なものです、自分本位な感覺はなかなかゼロにはなりません。特に、意見といふものは自分本位のかたまりのやうなもので、それを、知人であれ親友であれ、見知らぬ他人であれ、ぶつける際には、先ずはそれが自分本位であることを理解しなければならないのです。百個あるうちの一個が自分本位なのではありません、濃度のやうなものといへば理解していただけるでせうか。自分が相手本位でものを考へられてゐると感じるのは勝手ですが、百に一つくらゐは自分本位が混じつてゐるものです。」七鍵氏の價値相對主義も所詮は七鍵氏の「自分本位」の考へ方から出たものに過ぎない――さう言はれたら、七鍵氏は言返す事は出來ない。これが論理である。

成程、斯う言はれた七鍵氏には、私に對する「わだかまり」が殘るだらう。だが、だからと言つて、七鍵氏だけがいい思ひをして良いと云ふ理窟にはならない。七鍵氏が私の價値觀を否定し、一方的に七鍵氏の價値觀を押附けようと、最初に「した」のだ。七鍵氏は、自分に「わだかまり」が殘るのは嫌だと言ふ。だが、七鍵氏の意見を押附けられた人間が「わだかまり」を殘すのを、七鍵氏は氣にしない。「自分本位」とはよくも言つたものだ。

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これだから「議論するな」派の人間は困るのだ。「議論しないで勝つ」のが彼等の目的だ。即ち、彼等は狡いのだ。價値相對主義は、結局のところ、彼等の「鎧」である。
★けれども、さうやつて自分の内に立籠り、他人からの干渉を避け續ける事は、良い事なのか。
自分の外部に、客觀的な正しさ、正當性が「ある」事を認める――それこそ人が傲慢に陷らない爲に必要な事だ。實際、七鍵氏が、「自分の意見は正しい」と主張し、それを一方的に押附けようとして、傲岸不遜な態度をとつてゐる事は、傍から見れば明かな事だ。
「理想より人」と、簡單に言ふ事は出來る。しかし、人、人、人――人の立派さ、と言ふより自分の立派さを誇示する事になつたら、それは傲慢になる事を意味するだけだ。人が傲慢になつたら何うしやうもない。人は謙虚にならねばならない――ならば、人は自分以上の存在を認めなければならない。己の主觀の相對性を認めるならば、客觀的な眞實の價値を肯定しなければならない。「人より理想」と言つたゆゑんだが――自分が偉大である事を確信し、自分の氣に入らない誰かを兔に角貶めたいと願つてゐる某氏には、とても受容れられない價値觀だつたらしい。

或は――自分の價値觀を否定されるやうな事を言はれて「わだかまり」を覺えるやうでは、人間としてまだまだだ。
人の立派さ・價値は、その人の知識の多寡とは關係ないだらう。間違つた事だつて言へば良い。言つて叩かれるなら叩かれれば良い。それで他人から馬鹿にされようが、自分の間違ひが正されるなら一つ儲けた事になる訣だし、「わだかまり」を抑へる訓練だつて出來よう。他人から叩かれないで人間が「出來る」やうになるものでもない。精々叩かれる事だ。議論は「する」ものだ。
議論を囘避する爲に御立派な「哲學」をでつち上げる奴は、負けたくないだけの・自分本位を正當化したいだけの、狡い人間だ。さう云ふ人間にだけはなつてはならない。