闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「自分本位」對「自己抛棄」

「現代仮名遣」は、或語について、「このように書け」と一方的に命令するものだ。使用者は、何者かによる命令に從ふ事になる。これを「大變良い事だ」と考へる人がゐる。しかし、なぜ「良い」かと言ふと、その命令者は、「自分」だと、その人は考へてゐるからだ。「自分の好みに合つた事を命令して呉れてゐるのだから、命令として受容れる事が出來る」。しかしそれは、寧ろ「自分本位」の、自己中心的な發想と言へよう。

一方、歴史的假名遣――特に契冲の科學的な假名遣ひは、或語について、その本來の書き方がどのやうなものであるかを、客觀的に示す。それに對して、使用者は、自分の好みとは關係ナシに、それが客觀的に正しいものであるから、慫容として從ふものである。自分の主觀を排除して、客觀的なものに進んで從ふ。「自己抛棄」の發想である。

この點で、兩者は大きく異る。

「自己抛棄」的な發想を、今の多くの人が嫌ひ、自分を守らうと躍起になる。その爲に、自己抛棄を要求されると、それは「攻撃」だと勘違ひし、「攻撃者」を「傲慢」だと非難する事になる。けれども、誰も攻撃などしてゐない。
算數で一足す一は二と云ふ基本的な決り事を教へられた子供が、「なんて傲慢なんだ」と、算數の規則そのものに怒りを覺える事はない。そもそも算數は人格を持たないから、傲慢たり得ない。規則を教へる先生に怒りを覺えて「傲慢」だと非難するのは、筋違ひの八つ當りだ。斯う云ふ事は、小學生でも解る。
ところが、話が算數でなく、人文科學の領域となると、多くの人が途端に筋違ひの怒りを爆發させる。これはをかしな話だ。

ところで、客觀的に正しいものに從ふ、と云ふ價値觀は、現代人になら、誰にでも求められるものなのだ――現代の日本人になら、と限定して言つたらもつと正確だらう。今は封建時代ではなく、文明開化の時代である。明治時代に日本人は、近代化を受容れた。江戸時代までの因習的な態度を改め、科學的な態度をとる事を撰擇した。
假名遣ひにしても、明治政府は、近代の日本人により相應しいものとして、より近代的な契冲のかなづかひを撰擇した。だから、それが何年通用してゐたとか議論する必要はない、一度採用したのだから、日本人は何時までもそれを採用し續けなければならない。方針の根本的な轉換は許されない――「近代化」と云ふ明治以來の方針を抛棄しない限りは。

多くの人が、敗戰をきつかけに、何でも變へて良いと考へるやうになつた。成程、考へ方は反省して良いだらう。けれども、多くの人が、外觀や形式を變へる事に夢中になつた。憲法もさうだ。兔に角形を變へれば氣分が良い――しかし實は、依然として日本人は精神的に戰爭前の、と言ふより明治より前の、因習的な・封建的な・非民主的な發想から脱し得てゐない。議論を拒否する態度を當然のものとしたり、言論でなく暴力で事を決しようとしたり――それを「當り前だろ」と言放つ人は大變多いが、それこそ近代以前の發想をその人が當然のものとして持つてゐる事實を示す。けれども、それでは駄目だらう。

問題は、さう云ふ人々の發想が全て「自分本位」である事だ。昔ながらの古臭い考へ方をしながら、自分を抑へる昔からの方式は破壞し、自分本位の態度を正當化する理論と形式だけを今の日本人は「好み」によつて撰擇してゐる。それは良くないに決つてゐるが、今の日本人は「良い」と思ひ込んでゐる。「自分」を守つて何が惡い、と言ふのだ。だが、それは、近代以前の發想と、近代の形式とを惡用した態度だと言つて良い。
自分本位で獨善的な態度を、今の日本人は正當化する「哲學」を構築したのだ。それこそ反省されなければならない。

近代以前と言つても自己抛棄の美徳は存在したし、近代以後も矢張り自己よりも自分の外部の正しさを客觀的に認める學問的態度が存在する。それらを強烈に排除し、自分に都合の良い・氣持ち良い世界を作らうとする人々がゐる。彼等の世界は、何う考へても薄汚い・醜いものだし、彼等の態度が人をして眉を顰めさせるやうな非道いものである事は明かなのだが、彼等にしてみればさう云ふ自分逹の態度を非難する人間こそ「獨善的」で「傲慢」なやうに見える。彼等にとつて都合の惡い事を、彼等は相手が言つて來るのと同じ言葉で言返して、意趣返ししてゐるのだ。だが、自分、自分と言つてゐる自己中心的な人間が、正しい訣がない。
「哲學」を惡用してゐるのは誰か。