闇黒日記?

にゃもち大いに語る

ものは言ひやう――七鍵氏の狡いレトリック

http://www.7key.jp/diary/list/2009_09c_29_01
世の中には、自分で「正しい」を判斷しなければならない場面などいくらでもあります。それら一つ一つに、誰もが認める「正しい」が存在するなどとの考へ方は、あなたの思ひ上りではありませんか。「正しい」を自分なりに解釋してゐませんか。
七鍵氏のこの主張を、七鍵氏自身がはつきり意識してゐたとは、とても思はれない。

http://www.7key.jp/diary/list/2009_09b_16_01
東京とはおそろしい地域で、電車に乘つてゐると、女性のかたが、男である私に對して、平氣で尻をすりよせてくる地域である。私の意志や主張や人格は、この場合なにも效力を果さない。女性は自身の意思で、自ら率先して、自らの尻を私にすりよせてくるのである。さすがに蹴り飛ばしはしないが、男にしても女にしてみても、乘らないといふ選擇肢はないのだらうか。男にしても女にしても、見知らぬ男に尻を摺り寄せてまで電車に乘りたいのだらうか。むしろ。聲もかけずに、尻を摺り寄せて電車に乘らうとする習慣は何とかしなければならない。なぜ。望みもしない尻を觸らなければならないのか、私の身にもなつてくれ。
何度でも言ふが、これは七鍵氏の「自分本位」なだけの主張だ。しかし、こんな主張を七鍵氏が、論理的に「する」事それ自體、をかしい。

七鍵氏は、女性を「さすがに蹴り飛ばしはしない」と書いてゐるが、これは何う考へても「本心では蹴り飛ばしたいが、實際には蹴り飛ばさないでゐる」だけだ。しかし、「蹴り飛ばしたい」と思ふくらゐに、何うして七鍵氏は自分の立場の絶對的な正しさを確信出來たのだらう。七鍵氏の論理に據れば、女性の側にも「自分本位」の「正しさ」が「ある」と、七鍵氏は豫想出來なければならない――七鍵氏の主張によれば、如何なる人間の如何なる主張にも「自分本位」の點がある筈であり、ならば七鍵氏は自分の主張にある「正しさ」と同じくらゐに、相手、此處では「尻をすりよせてくる」女性にも「正しさ」が「ある」と認めてゐなければならないのだ。
が、その時、七鍵氏は、このやうに一方的に「女性の間違ひ」を指彈し、自分の正しさを言ふ事はあり得ない。

――もしかすると、七鍵氏は、面と向つてはつきり言はなければ良い、本人のゐないところで惡口を言つて憂さを晴らすのは大變良い事である、陰口を叩くのは幾らでもやつていい、等と、本氣で思つてゐるのだらうか。ならば大變に陰濕である。
陰濕な人間が大威張りで他人に説教してゐる光景をよく見るけれども(例:Kirokuro、某惡性氏)、やつぱりをかしいだらう。七鍵氏も彼等陰濕の一派に屬するタイプの人間であるやうに思はれる。

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そんな七鍵氏が、「正しさ」について、語つてゐたのを、再び三度採上げる。しつこいやうだが、一度でばつさり斬捨ててはならない程、この人の認識はをかしいので、例によつて「執拗に」論じさせていただく。

http://www.7key.jp/diary/list/2009_09b_15_01
正しい、正しい、正しいなんて、口でいふだけなら誰でもできることであつて。正しかつたか否かは、行つた結果に對して自身以外の誰かが下す判斷である。結果も殘すことができない人間が、「正しい」ことについて言及してゐる姿は滑稽以外の何ものでもない。なるほど、哲學とは便利な學問だ。
さて、「自身以外の誰か」が「判斷を下す」事を七鍵氏は期待してゐるのだが――「判斷する基準」は何だと七鍵氏は考へてゐるのだらう。私には七鍵氏がその邊の事を深く考へて言つてゐるとはとても思へない。

http://www.7key.jp/diary/list/2009_09c_29_01
御存知ないかも知れませんが、説明のできる正しさとは、世の中にある問題のごく一部に限られた話でしかありません。考へてもみてください。例を擧げると、例へ話ですが。「今の仕事を續けるのが正しいか」、「好きな異性以外が二人以上存在することは正しいか」、「私の幼少時代に誤りはなかつたか」など、擧げればきりのないことなのですが、これらに正しい答へを出せますか。それは、誰がどのやうに考へても明らかに正しい答へですか。
となると、判斷なんて事は「人間には一切出來ない」と云ふ結論に至るしかない。
だが、七鍵氏は、「自身以外の誰かが下す判斷」等と氣樂に言ふのだ。「正しい答を出せ」ないのだから、それを「判斷しろ」とは無茶だらう。出たら目を言ふのも休み休みにして貰ひたいものである。
★他人に無茶な要求をしつゝ、自分は氣樂に好き勝手な事を言ふ――七鍵氏の目的は、自分だけは「自分本位」の「正しさ」を主張したい、他人にはそれを批判されたくないから豫め自分を批判する人間を默らせる爲の「論理」を提示して、豫防線を張つて置かうと言ふのだ。なんて卑怯な人間なのだらう。

しかしそもそも「自分本位」である事を肯定する態度それ自體が問題なのだ。人の意見は「自分本位」である部分が必ずある――ふむ。しかし、なればこそ、人は自分の意見から「自分本位」の部分を排除しようと努力すべきなのでないか。
この考へ方を受容れるならば、人は自分の意見をより客觀的なものとしようとする筈である。その爲に傍證なり例證なり根據なりを探す努力をする事になる。と言ふより、さうした努力をした結果として主張はなされる筈だ。その時、その主張が一見「おしつけがましい」ものだつたとしても、その壓力はその人の主觀・價値觀が原因なのではなく、寧ろ客觀性が理由であると言ふべきだ。即ち、眞實味があるからこそ、偏頗な人は自分の偏つた信念の搖らぐ樣を自覺して――焦るのだ。
それを七鍵氏は「わだかまり」と呼稱する。ものは言ひやうだ。良いものも、惡いやうな名前の爲に、嫌な印象にさせられる。人は焦るべきだし、焦つたら信念を取戻す爲に努力すべきである。それを「したくない」人間が、わだかまりだけを殘す。一方、その努力の結果、改めて自己の誤を自覺した時、人は信念を捨てて、客觀に附くであらう。それでいいではないか。

七鍵氏は、何を考へて、人の偏つた考へ方を放置したいのだらう。「偏りではない、世の中、偏りと言へる事は一つもない」――いやいや、七鍵氏は、狡いのである。「説明のできる正しさとは、世の中にある問題のごく一部に限られた話でしかありません」、ところが「ごく一部」と云ふ認識の仕方、これが七鍵氏の「自分本位」の意見でしかないとしたら――事實、さうなのだ。實際には、案外多くの事が、「説明のできる正しさ」である。七鍵氏は、それが「多い」と自分にとつて不都合であるから、例によつて「ものは言ひやう」、如何にも少いかのやうに言做して、嘘を言つて、他人を騙さうとしてゐるのだ。

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歐米なんかでは、人が話をする時、知人同士でも、初見の人同士でも、普通に討論をする。馴れ合ひのなあなあの言葉のやりとりをするのは日本人が日本人だからだ。けれども、日本人は明治以來、歐米の流儀を採入れようとして來た筈である。ならば「日本人らしからぬ對話の仕方」をする事も、我々は必ずしも一概に否定し去る事は出來ない筈である。
ウェブと云ふ公開の場での討論は、七鍵氏が一概に否定する事だが、私は肯定すべき事だと思つてゐる。そこでの「資格」なんて事を言出すのは、討論を妨碍するのが目的の、卑しむべき前近代的な・封建的な――ただの足を引張るだけの行爲だ。それを「する」のを「當り前」と思つてゐる人は、大抵因習的で、前近代的な發想を持つてゐるものだし、さう云ふ人だからこそ、今と云ふ一切の精神的束縛=自己を抑へるもののない時代に、自分の欲望・自分の利益だけを追求する「自分本位」の態度を露骨に表明して、愧ぢるところが無い。「自分本位」とは良くも言つたもので、それは封建時代・近代以前には、きちんと抑制する機構があつた。それがなくなつたのが現代であり、ところが人の精神だけは昔のまゝだから、人は結果として墮落したのだが、墮落した人間に限つて自分は偉いと思つてゐるから、自分を否定するもの全てを敵と看做す――「自己を抑制する」事を言ひ、「自己を抛棄する」事を言ふ人間も、彼等にしてみれば、「自分を否定する許すまじき敵」であり、「自分を否定する恐るべき傲慢な人間」である。
斯うした認識は、異常な認識であるのだが、異常な人間には自分が異常である自覺が持てない。讀賣新聞の編緝手帖氏に據ればさう云ふ異常な人間には言ふべき言葉がないさうだが、私はそれでも言はずにはをれない。それを見て、ますます私を敵視する人はいきり立つのだが――さうした人の一人が七鍵氏だと云ふ事。

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追記