闇黒日記?

にゃもち大いに語る

議論の成立し得る範圍

七鍵氏の考へ方はさつぱり解らない。

http://www.7key.jp/diary/list/2009_09b_15_01
正しい、正しい、正しいなんて、口でいふだけなら誰でもできることであつて。正しかつたか否かは、行つた結果に對して自身以外の誰かが下す判斷である。結果も殘すことができない人間が、「正しい」ことについて言及してゐる姿は滑稽以外の何ものでもない。なるほど、哲學とは便利な學問だ。

http://www.7key.jp/diary/list/2009_09c_23_04
何も私は、自分の意見が正しいと考へてこちらに記事を書いてゐるのではありません。過去に何囘か明言してゐることですが、Suckyさんは讀まれてゐないでせうから改めていひますと、私は正しいことを言はうとしてゐるのではありません、私の意見だから言つてゐるのです。當然、自分では正しいと思つてゐることなのですが、それを他人が讀んで正しいと感じてくれやうなどとは思つてゐません。いや、そのやうな人がゐたら良いなとは思ふのですが、さう思はない人にまでさう感じさせようとは全く考へてゐません。さらに。文章で私の機微までもが傳はるとも、當然思つてゐません。
"相手の事情を考へない、自分の都合だけを考へてゐる人"を指して自分本位とこゝでは定義しますが。人間だれしも自分本位なものです、自分本位な感覺はなかなかゼロにはなりません。特に、意見といふものは自分本位のかたまりのやうなもので、それを、知人であれ親友であれ、見知らぬ他人であれ、ぶつける際には、先ずはそれが自分本位であることを理解しなければならないのです。百個あるうちの一個が自分本位なのではありません、濃度のやうなものといへば理解していただけるでせうか。自分が相手本位でものを考へられてゐると感じるのは勝手ですが、百に一つくらゐは自分本位が混じつてゐるものです。自分以外に意見をいふ際は、氣をつけなければなりませんね、お互ひ。
Suckyさんが肝腎だと仰るのであれば、お喋りに付き合ふのもやぶさかではないのですが、むしろ、議論――正當性の押し付けあひ――して何か結論が出る、それは非常に拙いことだと思ひます。これは持論なのですが。人はなかなか自身の意見を變へるものではありません、むしろ無理矢理變へやうとすると、何かしらわだかまりが殘るものです。以前、とは言つても最近、書いた記憶があるのですが、改めていひますと、正しいといふ感覺は他人に押し付けるものではありません、自分の正當性は自分で判斷し、その「正しい」を聞いた者はその人自身が正しいか否か判斷をするものです。むしろ、正しいとの感覺は共有すべきものであつて、感覺が違ふもの同士が、これが正しい、と言ひ合つたくらゐでは、相手の價値觀は變はりません。特にwebといふものは。面と向つて話をしてゐるのではありませんし、お互ひ文章がつたない部分もあるかも知れません。つまり、私の言はうとしてゐることの全てがSuckyさんに傳はらないでせうし、逆も然り。そのやうな状況で正しいことを押し付けあふ行爲は、人によつては自己滿足を得るでせうし、暇つぶしになるかも知れませんが、私は、webで正當性をぶつけあつて何か得られるとは思つてゐません、むしろ不利點しか見付かりません。


http://www.7key.jp/diary/list/2009_09c_29_01
仰られてゐる「正しい」とは、「1+2=3」のやうに、誰がどのやうに考へても明らかな正しさのことを例に擧げられてゐるに過ぎません。御存知ないかも知れませんが、説明のできる正しさとは、世の中にある問題のごく一部に限られた話でしかありません。考へてもみてください。
世の中には、自分で「正しい」を判斷しなければならない場面などいくらでもあります。それら一つ一つに、誰もが認める「正しい」が存在するなどとの考へ方は、あなたの思ひ上りではありませんか。「正しい」を自分なりに解釋してゐませんか。

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七鍵氏は、「正しさ」は主觀的に「感じる」ものだと考へてゐるのか、客觀的に「判斷出來る」ものだと考へてゐるのか。
もし「感じる」ものだと考へてゐるなら、成程、「議論」は「正しさ」の「押附け合ひ」にしかならない。けれども、「判斷出來る」やうな客觀性を持つものなら、「議論」は「正しさ」の正當性を主張し合ふ事となる筈だし、さうなつたら「自分本位」なんて事を言出す餘地はなくなつてしまふ。

斯うしたあやふやな考へ方が七鍵氏の主張の中にはある――と言ふより、「あやふやな考へ」ならば、それは論理ではない。結果として出て來る「意見」は、「哲學」的な雰圍氣を纏つてゐたとしても、全部感情論だ。
そして、感情論だからこそ、七鍵氏は意固地になる。自分の考へに固執する事になる。結果として、「自分が一番偉い」と云ふ發想になるし、その自分に逆らふ人間を「傲慢だ」と極附けて排除する事になる。

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人間は、主觀・價値觀について、議論出來るだらうか。
――「出來る訣がない、なぜなら價値は信ずるもので、客觀性がないから、押附け合ひしか出來ないからだ」、さう平氣で言ふ人がゐる。私はさうした主張に與しない。なぜなら、神學と云ふものは、確かに學問としてある――學問として成立してゐるからだ。
主觀に關してであつても、價値觀を共有してゐるならば、その上に立つて人は議論する事が出來る――それも、客觀的に。
七鍵氏が頻りに言ふ「自分本位」=「相手の事情を考へない、自分の都合だけを考へる事」、これは惡い事だ――私も認めるし、七鍵氏も認める。ならば我々は「自分本位は惡である」と云ふ共通の價値觀に基いて、議論出來る。そこでは、最早價値觀は前提であり、そこから先では客觀的に・論理的に、個別の問題を價値に照らして、檢討する事が出來る。其處に價値觀の押附け合ひ・「正しさ」の押附け合ひはない。と言ふより、「論者雙方が正しいと認める價値觀」に照らして、個別の問題における正しさは決定出來る。
七鍵氏は、さうした「論理的な歸結としての正しさ」と、そもそもの共通感覺として要請される「正しさ」とを、故意にかうつかりにかは知らないが、混同してゐる。「共通に認める價値としての正しさ」が、「ない」ならばその時點で價値觀の押附け合ひが始まらざるを得ないが、「ある」場合には最早議論は議論として成立つのである。
もちろん、前提が主觀である限り、議論は「神學論爭」であり科學的な論爭にはならない。が、「神學論爭だから」議論が成立たないとする主張はあり得ない。話は逆で、「神學論爭だからこそ」議論が成立つと言はねばならない。