闇黒日記?

にゃもち大いに語る

他人の感情の事なんて、七鍵氏、考へやしない癖に

相變らず、七鍵氏が何を怒つてゐるのか解らない。「道徳的な非難はファッションだ、と思つてゐる私に噛み附いてくるなんて、なんて非道い奴だ」? 目茶苦茶だ。

http://www.7key.jp/diary/list/2009_10a_06_02
なんでこのやうな例をいまさら擧げるかといふと、どうもSuckyさんは自分の正當性を説明することにばかり夢中になり、自分が何を言つてゐるのか解つてゐないのではないか、さう感じ始めたから。私が何に腹を立ててゐるのかを事前に説明しないと、いつまでも話がかみあはないのではないか、さう感じ始めたから。
お喋りついでに加へると。人の行つた行爲に對する正當性なんて、いくらでも證明できる。いくらでも證明できるのだが、反面、立場を變へて説明をすると、その行爲に對する誤りもいくらでも證明できるものだ。それについていくら言ひあつてみても、それは水掛け論でしかない。お互ひに自身の正當性をいひあふ場面は特に水掛け論にしかならない。あゝ、あなたはさう感じるのですねと、お互ひに納得しあへればまだましで、たいていはわだかまりが殘るだけだ。"私は、終り方に對する批評をしたいがために、こゝまでSuckyさんに譲歩をしてゐます。"は、このことを豫言した伏線です。
※このやうな例→http://www.7key.jp/diary/list/2009_10a_06_01

人の行爲に對する不當性もまた――ならば七鍵氏が「尻をすり寄せてくる女」に怒つたのもをかしいだらう。だが、七鍵氏は、「不特定多數」に漠然とした話をするのは大變良い事だと思つてゐる。そして、その漠然とした話に特定個人がひつかかるのは大變惡い事だと思つてゐる。
だが、根本的に七鍵氏の主張はをかしい。不特定多數に言ふからこそ、ひつかかる人間が出て來るのだ。もし不特定多數の中から自分に對する反論を言出す人間を引張り出したくなければ、やつぱり七鍵氏は、公開の場で物を言ふべきではないだらう。

しかし、「水掛け論にしかならないから、そこで議論を仕掛けてくるのは異常だ」と言ふのなら、そもそもさう云ふ水掛け論になるやうな話題を持出した七鍵氏自身が惡いではないか。なんでこんなに何でもかんでも他人の所爲にして、自分の正當性を主張しようとするのだらう。剩へ、他人には自分の正當性を主張させまいとする。七鍵氏、獨善も極まれりだ。

なぜ七鍵氏は自分の行爲を反省しないのだらう。しかし七鍵氏、「私だけは絶對に正しいからである、少くとも私の中では」等と、昂然と言放つのでないか。

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そもそも、七鍵氏には、議論の軸が解つてゐない。七鍵氏は、他人を道徳的に責めたのだ。ならば七鍵氏自身はどうなのか、と云ふ反問は、豫想されて當然だらう。ところが、其處を衝いてほしくないと七鍵氏は言ふのだ。けれども、當然のやうに皐氏は七鍵氏の一番痛いところを衝いた。それで七鍵氏は「腹を立てた」のだが――誰が何う見ても、七鍵氏のは逆切れだ。七鍵氏には理が無い。
ところが「理」なんてものは何うでも良い、感情だけが問題なのだ、と七鍵氏は言ふ。これが最大の問題で、理窟を蔑ろにするやうな人間だからこそ、七鍵氏の話題は水掛け論にしかならないのだ。感情的な罵り合ひになるやうに、話を七鍵氏は振つてゐる。皐氏が理窟を述べると、「私は腹を立てた」「私は腹を立てた」と七鍵氏は言つて感情の問題であると強調する。だが、それはをかしいだらう。
そもそも、感情の問題に「する」事がをかしい。それなら七鍵さん、あなたは女性の讀者があなたの「尻をすり寄せてくる」論を讀んで、どんな感情を抱くか、想像しましたか。「好きでさうしてゐるんぢやない」――さう思ふ女性の讀者が殆どでせう。七鍵さん、あなたは一方的過ぎます。感情の事を言ふなら、讀者がどんな感情を抱くか、想像してから文章を書くべきです。

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「特定個人を怒らせる事は、どんなに正當化しても許されない、特に私を怒らせた場合。けれども、不特定多數を怒らせても、それは不特定多數相手であるがゆゑに免罪される、特に私が怒らせた場合」――七鍵氏の「哲學」。「哲學」にしては御粗末過ぎる。