闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「第三者には出來るだけ少い材料で判斷させろ」?

「女が私に尻をすり寄せてくる」と云ふ七鍵氏の話は、ファッションの話でもなければ、自然現象の話でもない。七鍵氏は、價値觀を表明してゐる。書き手が價値觀を表明してゐる以上、讀み手・受け手は贊成・反對の意見を持つやうになる。


さらに。他人の文章や發言から何を得るか、これは讀み手や聽き手の能力に大きく左右されることなのです。かういひ放しにすると誤解を招くことが判つたので無理に加へますと、何も文章の書き手や發言者に、受け取り手に對する責任がないと申し上げてゐるのではない、同じ内容から何を得るかが受け取り手の大切な能力の一つになると申し上げてゐるのです。「このリンゴは一つ100円である」といふことは、受け手も與へ手も、その能力を最大限用ゐて意思疎通しなければなりません。が、そのやうなことを言つてゐるのではない。「木からリンゴが落ちた」ことを受けて何を得るか、との話をしてゐるのです。
七鍵氏の言つた事は、「木からリンゴが落ちた」と云ふ價値中立の事であり、其處からどのやうな價値を取出すかは、讀み手・受け手の能力を示す事である、と七鍵氏は主張する。しかし、「女が私に尻をすり寄せてくる」の話は、「滿員電車に默つて乘込んで來るのは良くない」と云ふ話であり、七鍵氏の價値觀の話である。
そこで「何を得るか」も糞もない。七鍵氏の示した價値觀に對して讀み手は「贊成か・反對か」の意見を持つ事になる。

價値觀を示した七鍵氏に對して、自分の價値觀を持つた讀み手は、時として對立する事になる。この時、讀み手の側が自身の價値觀を表明する事はあり得る。のみならず、その價値觀が正しいと信ずる事もあり得る。
ところが、價値觀の正邪について、述べる事を、七鍵氏は嫌ふのだ。
なぜか。
★七鍵氏は、自分の意見を否定されるのが嫌で嫌で仕方がないからだ。
自分と同じ意見を持つて呉れるのは嬉しい。しかし、違ふ意見を持つてしまふのは嫌だ。もちろん、さう云ふ事はあり得ると七鍵氏は理性で解つてゐる。だが、感情が受附けない。しかし、七鍵氏は自分で自分の感情を抑へる事を知らない。だから他人に「私の感情を逆撫でしないで下さい」と一方的に命ずる事で、自分の感情を滿足させようとする。

けれども、價値觀を表明しておいて、他人からの批判を受けようとしないのは、無責任だ。

七鍵氏の「理論」によれば、どんなに根據のない、非科學的な、出たら目な主張でも、無責任に垂れ流して良い、と云ふ事になる。他人がそれを批判すると、主張をした人は不愉快になるからだ。けれども、さうした主張が無責任に垂れ流される事で、社會全體に迷惑がかかる――七鍵氏は、さうした迷惑が廣まる事については、一切責任をとらないでいいと主張するが、それは如何なものか。
批判は全て、さうした無責任な・一方的な・でたらめな發言に對抗する發言でなければならない。勿論、批判の側がをかしい事もあり得る(例:「義」「喜六郎」「アレクセイ」「沖某」)。しかし、批判者の側のをかしさを明かにするのも、結局は元の發言者の側の正しさを主張する事によつてのみ可能な事だ。
結局は、相互に正しさを主張し合ふ事によつて、相互に相手の意見を檢證し合ふ事で、意見の判斷材料が、第三者に、より多く提供される事になる。
七鍵氏は、一發で主張の善し惡しを讀み手・受け手は判斷しなければならないと言つてゐるが、「それだけでいい」「それ以上に何かを言ふのは、第三者の判斷を邪魔する事だ」と七鍵氏が考へるのは、何なのだらう。

今示した人々の名前を擧げて氣附いたのだが、主張の「正しさ」を否定する人に限つて、他人に「賛成」「反對」の立場をとらせようとし、自分にとつて敵か・身方かで簡單に相手の人格を判斷しようとする傾向が見られる。斯うした短慮・安易な判斷を避ける爲にこそ、議論は必要なのだが――恐らくはさうした議論をして自分の立場が無くなるのが嫌で、豫防線を張る爲に議論の意義を否定し、そもそもの「正しさ」それ自體まで否定してかかつてゐるのだらう。横着なのである。