闇黒日記?

にゃもち大いに語る

七鍵さん、あなたは文章を讀めないし、書けない人だ

七鍵氏は、自分の主張に「哲學」は「ない」と言ふだらう。これまで散々皐氏を罵倒した七鍵氏の記事で、七鍵氏は、全て「具體的な例」を擧げるだけだつたからだ。そこに「論理はない」と七鍵氏は言ふ。だが、譬喩を用ゐてゐても、それを理解するのに人間は論理を以てする。ならば、七鍵氏は論理を使つてゐたのだ。七鍵氏は論理で説得を試みた。七鍵氏は自己正當化の為の試みを繰返した。七鍵氏はその事實を否認する。しかし、客觀的に見て、七鍵氏が「自身の正當性を自ら主張」した事は、事實だ。

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七鍵氏は、文章は全て「自分本位」なものだ、と云ふ「哲學」を持つてゐる。けれどもその「哲學」は全て、「自分本位」を許す方向にしか働かない。常識的に考へてほしい。「自分本位」な態度は、全て否定されるべきものだ。身勝手は許されない。常識だ。ところが七鍵氏は、「自分本位」であつていい、と云ふ「哲學」を繰返し「語る」事によつて、それを押通さうとする。

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けれども、その七鍵氏の「哲學的」な態度は、七鍵氏自身の認識をも狂はせてゐる。七鍵氏は、自分に都合の良いやうに話を持つて行かうとするのみならず、自分に都合の良いやうに相手の話を認識する。

http://d.hatena.ne.jp/Sucky/20091010/1255182219
「終り」は七鍵さんが勝手に決めればいゝ。

http://www.7key.jp/diary/list/2009_10a_10_04
終つてゐるのであれば、私からも特筆すべきは何もありません。
此の噛合はない對話。「終つてゐる」か何うかは「七鍵さんが決めれば良い」と皐さんは言ふのだが、それを見た七鍵氏は「最う終つてゐるのですね」と應ずる。七鍵氏は、自分で「決める」のではなく「事實としてさうなつてゐる」のだと「指摘する」のだ。
これは七鍵氏のレトリックの典型だと思ふ。

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驚くべきは、七鍵氏が執拗に「主張を繰返し、説明を繰返しただけだ」と述べてゐる事だ。
私は、私の言ひたいことを何度も繰り返し、Suckyさんに理解していたゞけるよう繰り返し説明をしてゐただけです。
唯一心殘りなのは、今囘のやり取りで、私は自身の正當性を自ら主張――かういふ意味で言ひ、それにはこのやうな理由があるなど――しようとはしませんでした、私がSuckyさんの文章を讀んでどう感じてゐるのかを主に説明しました。
なるほど、説明をしようとしない態度は、非を認めない行爲であると聯想される場合もあるといふことが解りました――Suckyさんに對する嫌味ではなく、私自身の反省點です。
七鍵氏は、「私は、自分の正當性は述べてをらず、そもそも問題にしてゐない。だから非を認める・認めないと云ふ事は問題にすらならない」と言つてゐる。だが、こんな「哲學」は「あり」か?

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http://www.7key.jp/diary/list/2009_09b_16_01
これは七鍵氏にしてみれば「趣味の話だ」と言ふのだ。
女性は自身の意思で、自ら率先して、自らの尻を私にすりよせてくるのである。
なるほど。女性が「尻をすりよせる」のも「青い服を着る」のも、七鍵氏は「全く同じファッションである」と言ふ訣だ。目茶苦茶だ。しかし。
さすがに蹴り飛ばしはしないが、男にしても女にしてみても、乘らないといふ選擇肢はないのだらうか。
なぜ七鍵氏は蹴り飛ばさうと思つたのだらう。當然ながら、「尻をすり寄せてくる」のは「惡い事だ」と七鍵氏が價値判斷したからだ。しかし、報復するのも「惡い事だ」から七鍵氏は「しない」と言ふ訣だ。
★趣味の話? 全然違ふ。價値判斷の話だ。
七鍵氏は、しかし、自分が何の話をしたか、全然解つてゐない。七鍵氏は、自分自身が何を話したのかすら、認識出來てゐない訣だ。

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自分が何を語つたのか、相手が何を言つてゐるのか――七鍵氏は「自分本位」の立場を無反省に固執する爲に、これらの事を全く認識出來ないでゐるのだ。これは、文章を書き、公開の場に公開する資格を疑はれても仕方がない。もちろん、七鍵氏は、私の批判を讀まない。讀まないから反省しない。そもそも反省したくないから私の批判を讀まない――ここまで「理路整然とした哲學」もない。だが、獨善の哲學は、内部ループしてゐるが故に強固なだけに過ぎない。そこには「他者」と云ふ觀點が存在しない。が、事實として他者からの批判が「ある」――その時點で「獨善の哲學」は否定される。七鍵氏は反省しなければならない。
けれども、七鍵氏は獨善の立場に固執するがゆゑに、絶對に反省する事はない。だからこそ、七鍵氏は「なるほど、説明をしようとしない態度は、非を認めない行爲であると聯想される場合もあるといふことが解りました――Suckyさんに對する嫌味ではなく、私自身の反省點です。」と言ひ、「聯想される場合もある」等と「讀み手の能力の缺如」のせゐにして自己正當化を行ひ、自分自身を欺瞞して、「勝つた」事にして話を終らせようとする。
さて、「勝つた」七鍵氏だが――なるほど、これで終はらせても、兩者には「わだかまり」が殘る、と。「わだかまり」論を主張する七鍵氏には、興味のある事だらう。勿論、私には何の意味もないものとしか思はれない。しかし、そもそも「わだかまり」を生じさせた責任は誰にあるのか。七鍵氏は、全て皐さんに「ある」と言ひたげだ。けれども、誰が何う考へても、最初に「公開の場で自分の意見を公開した」七鍵氏に責任がある。七鍵氏が一切口をきかなければ、誰も七鍵氏の存在には氣附かず、七鍵氏の意見に感想を持つ事もなかつた。七鍵氏は、他人に自分の文章を讀ませ、感想を抱かせた。
★七鍵氏は、反應した奴が惡いと言つてゐるが、そもそも意見を言出した自分が惡いのである。
けれども、七鍵氏は「自分本位」の立場を守らねばならないと心から信じてゐるから、他人を惡人にしないではゐられない――だから、反應した皐氏こそ「惡い」と「示唆する」。卑怯な話だ。「良い」「惡い」の話には、七鍵氏はしない。なるほど、「哲學」は本當に便利だ。

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追記


なるほど。七鍵さんが怒つたのも、理由が「ある」訣だ。