闇黒日記?

にゃもち大いに語る

七鍵氏の詭辯

七鍵氏は、「或場合にはさうであるけれども、必ずしもさうであるとも限らない」事を、「さうと限る」かのやうに言つて見せてゐるに過ぎない。

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一言で言つて、七鍵氏の主張は詭辯である。

http://www.7key.jp/diary/list/2009_10b_12_02
正義や因循といつた類の論は、爭ひの段階になればもはや根も葉もない。根も葉もないものだからこそ、爭ひがいつまでも收束せず、ましてや論が次の段階に陞華することもない。いつまでも收束しない爭ひなど、雙方、冷静になつてしまへば根も葉もないことに過ぎないものである。實態のあるものについて語るとき、ひとは決して、論が收束しないにも關らずいつまでも爭ふほどに昂奮はしないものだ。逆説を弄するわけではないが、だからこそ、實態がないことを主張したいからこそ、論敵といふ具體的な實態を慾しがるのかも知れない。

七鍵氏の主張をそのまゝ見ても、論理的に繋がつてゐない。

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では、敢て、七鍵氏の主張を全部逆さまの順序で書いてみる事にしよう。

(1)逆説を弄するわけではないが、だからこそ、實態がないことを主張したいからこそ、論敵といふ具體的な實態を慾しがるのかも知れない。
(2)實態のあるものについて語るとき、ひとは決して、論が收束しないにも關らずいつまでも爭ふほどに昂奮はしないものだ。
(3)いつまでも收束しない爭ひなど、雙方、冷静になつてしまへば根も葉もないことに過ぎないものである。
(4)根も葉もないものだからこそ、爭ひがいつまでも收束せず、ましてや論が次の段階に陞華することもない。
(5)正義や因循といつた類の論は、爭ひの段階になればもはや根も葉もない。

これでもまるで話が繋がつてゐない。

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七鍵氏の文章は、個別の文が「心理的には繋がつてゐるやうに見える」だけで、論理的には支離滅裂である。

しかも、全稱命題で表現して見ると、どれも論理として正しくない。

(1)「實態がない事を主張したい人は全て、論敵を欲しがる」
(2)「實體のあるものを語る人は全て、昂奮しない」
(3)「收束しない話は全て、根據が無い主張に基いてゐる」
(4)「根據が無い主張に基く議論は全て、收束しない」
(5)「議論される正義の主張は全て、根據が無い」

が、七鍵氏の言つてゐる事とは一致しない。

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七鍵氏は、全稱命題で話をしてゐないのだ。

(1)「實態がない事を主張したい或る人は、論敵を欲しがる」
(2)「實體のあるものを語る或る人は、昂奮しない」
(3)「收束しない或る話は、根據が無い主張に基いてゐる」
(4)「根據が無い主張に基く或る議論は、收束しない」
(5)「議論される正義の或る主張は、根據が無い」

七鍵氏の主張はこれである。

が、ならば、斯うも言ふ事が出來る。

(1)「實態がある事を主張したい或る人は、論敵を欲しがる」
(2)「實體のあるものを語る或る人は、昂奮する」
(3)「收束しない或る話は、根據のある主張に基いてゐる」
(4)「根據が無い主張に基く或る議論は、收束する」
(5)「議論される正義の或る主張は、根據がある」

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となると、論理的に七鍵氏の主張は「斯うでもある」のだ

正義や因循といつた類の論は、爭ひの段階になればもはや根も葉もない、と云ふものでもない。根も葉もないものだからこそ、爭ひがいつまでも收束せず、ましてや論が次の段階に陞華することもない、と云ふものでもない。いつまでも收束しない爭ひなど、雙方、冷静になつてしまへば根も葉もないことに過ぎないものである、と云ふものでもない。實態のあるものについて語るとき、ひとは決して、論が收束しないにも關らずいつまでも爭ふほどに昂奮はしないものだ、と云ふものでもない。逆説を弄するわけではないが、だからこそ、實態がないことを主張したいからこそ、論敵といふ具體的な實態を慾しがるのかも知れない、と云ふものでもない。

なあ、七鍵さん、あなたは、何を言ひたいのだ。

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いやいや、七鍵さんは、最初の文章だけは全稱命題の積りでゐるのだ。
「正義や因循といつた類の論は、爭ひの段階になればもはや根も葉もない。」
それ以外の命題は、全て特稱命題であるが、これだけは七鍵さんは「讓れない」だらう。ならばそれだけは全稱命題である筈だ。
が、この結論を引出す爲には、前提は全て全稱命題でなければならない(或は特稱命題の否定)。ところが、七鍵さんはひたすら特稱命題を羅列してゐるだけだ。となると、論理的に七鍵さんのこの結論としての全稱命題は根據ナシの極附けであると云ふ事になる。
しかしさうした根據ナシの極附けを、一般論として主張する事は許されるだらうか。七鍵氏は「許される」と考へる。しかし私は「許されない」と考へる。なぜ許されないか――デマ・風説・風聞の流布だからである。

七鍵氏は、一般性・公共性のない事を言ふのも「自由」だと考へる。一方で、さうした「自由な言論」を批判する事は「絶對に許されない」と主張する。
が、それは、をかしいだらう。
一般性・公共性を示した上で意見は述べられるべきだし、それだからこそ批判は成立つ。民主主義・自由主義は、さうした發想の上に成立つてゐる。
七鍵氏の主張は、民主主義・自由主義を否定するものだ。民主主義・自由主義は、言論の自由を基盤に成立つてゐる。が、言論の自由における言論にはルールがある。それは、「意見を述べる時には一般性を示さねばならない」と云ふ事であり、さうした意見に對しては常に批判が許される。その結果として議論が奬勵される。ところが七鍵氏は、議論を否定する。

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どうせ「面倒臭い」と云ふだけの事なのだらう。ならば素直にさう言へばよろしい。なぜ下らない「哲學」を七鍵氏は開陳するのだらう。先に「哲學」を馬鹿にしたのは七鍵氏自身だつた。

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さて、この批判を七鍵氏は、受容れるだらうか。七鍵さんの主張にもかかはらず、或種の意見は客觀的かつ論理的に分析可能である。