闇黒日記?

にゃもち大いに語る

態度を判斷する基準は何?

人の或態度を「正しい」と判斷するのは何故か――七鍵氏はそれを考へない。「或態度が正しいか何うかはアプリオリに解つてゐる事だ」とひたすら主張する。
しかし、或價値觀に照らして、或行動は「正しい」と言へるだけだ。觀念があつて、具體的な行動が判定される。

七鍵氏にはそれが解つてゐない。


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http://www.7key.jp/diary/list/2009_10b_12_05
ひとは、腹がすけば、盜みくらゐのことは平氣でやりかねない。盜みを正當化しようとする態度に正義はなく、腹がすいても盜みをしない態度にこそ正義はやどる。正義とは即ち、態度にしか宿らないものである。論になど正義が宿るはずもない。
「盜まないのが正しい・盜むのは正しくない」と云ふ價値觀を持つ人間にとつて、具體的に「盜みをした」ら、それは「正しくない」と云ふ事になるだけだ。
正義が「宿る」とか「宿らない」とかの問題ではない。素敵な言葉を使つてみても、それで意味が生じたりはしない。

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http://www.7key.jp/diary/list/2009_10b_12_08
自身を正當化しようともしない態度は、間違ひなく忌むべき態度だが、誤りを認めるとの態度にはむしろ正義が宿るのではないか。私はまだ、誤りを認められない。何かを考へると、自身を正當化しようとする態度が滿ちあふれてくる。だからこそ、誤りを認めるとの態度に希望を持つてゐる。誤りとは、正義の對義語ではない。誤りを認め、もう一方の誤りを誤りと認めるのであれば、それは自身を正當化する態度にほかならない。誤りを認めるとは、そのやうに單純な態度ではない。
或價値觀に照らして初めて具體的な或行動・或態度を「正しい」「正しくない」と判定する事が出來る。

七鍵氏が問題にする、「正しくない行動・正しくない態度」について「正當化する」と云ふ事は、その行動・態度を「正しくない」とする價値觀を否定して、別の價値觀を提示すると云ふ事だ。となると、價値觀の衝突がある、と云ふ訣だが、さう云ふ別の價値觀の存在を七鍵氏は先づ認めないし、そもそも自分の信ずる或價値觀が絶對のものであり、またそれは普遍のものであると七鍵氏は信じてゐる――と云ふ事なら話は簡單なのだが、七鍵氏はさうは考へてゐない。
★七鍵氏の場合、「普遍性のない價値を各自が信じてゐる」のであり、ただそれらを七鍵氏は互ひに「衝突させたくない」。

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今七鍵氏はぐねぐねと解り難い事を言つてゐるが、態度を基準に物を言はうとしてゐるから訣の解らない事になつてゐる。價値或は價値觀を基準に考へれば、話はすつきりする。
けれども、七鍵氏は「結果原理主義」を唱へてゐるから、價値觀の話をしたくない。それでももつともらしく自分を權威者のやうに見せかける爲に、「反省」の態度を自分もとりたがつてゐるのだと云ふ振りをして、アピールして見せてゐる。
「誤を認める態度」を「立派な事」だと七鍵氏は言ひ、賞讃して見せる。だが、それは、七鍵氏が言ふやうに、態度それ自體に「正義が宿る」のではない。自分の非を認めて反省する事を一般に「良い」「立派である」と看做す價値觀がある場合、具體的な行動について「良い行動である」「立派な行動である」と評價する、と云ふ事だ。非を認める事が「愚かしい・馬鹿な行動である」とする價値觀が社會的に存在する場合、具體的な非を認める行動は「愚かしい・馬鹿な行動である」と判斷される事になる。

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結局のところ、私には七鍵氏が、ただただ獨り語りをしたいだけのやうに思はれる。批判をされて應答するのが面倒で仕方がないのだ。だから互ひに距離を置きたいと言ふのだが――それはせいぜい御願ひする事しかできないのであり、しかも讀み手はそんな書き手の御願ひに從はなければならない義理も道理も無いのだ。
そして、七鍵氏が「明かに」をかしな事を言つてゐるならば、それを讀者は指摘する事が出來るし、しても良い。そして、「ブログ」の仕組上、或はインターネットの仕組上、さうした指摘=批判を公開して、それを書き手の七鍵氏が知る事はあり得るし、また通知される事もあり得る。それを七鍵氏は禁止できない。が、だからと言つて「道徳的な惡事」のやうに極附けて罵倒するのは、それこそ「道徳的な惡事」だらう。私には七鍵氏の態度は身勝手で獨善的なものにしか見えない。
公開の場での發言は、公共的な内容である事を示し、一般性のある事を述べて、言はば「自衛」しなければならない。それに對して、批判がある事はあり得る――勿論、主張と關係のない人格攻撃や嫌がらせは「ルール違反」であり、認められないし、さうしたやり方で他人の發言を妨碍する輩は非難されて然るべきだが、しかし正當な批判に對して道徳的な非難はしてはならない。それは人格攻撃や嫌がらせの部類に入る。七鍵氏の皐氏に對する態度は、人格攻撃・嫌がらせの部類に入ると思ふ。
けれども、それを「よし」とする價値觀を、七鍵氏が持つてゐるとしたら、それは、そもそものさう云ふ價値觀こそが、批判の對象となる(そして、七鍵氏の價値觀を支持する人もまた)。七鍵氏の態度を私は反民主主義・反自由主義の態度だと思ふ。當然、反民主主義・反自由主義の主張を公開する事は、自由だ。言論の自由があるからだ。が、それを實踐する事は許されない。言論の自由は、飽くまで思想を言論の形で表明する事の自由であり、思想を實踐する自由ではない。七鍵氏の場合、思想の表明のみならず、思想の實踐までに至つてしまつてゐる。批判のみならず非難をされても仕方がない。

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實際のところ、さうした嫌がらせ・誹謗・中傷・人格攻撃の類を行ふやうな人こそ、問題なのだ。その手の人々は、確かに澤山存在するが、心がけが惡いと言はねばならないし、インターネットが前提とする民主主義・自由主義を破壞しようと考へて、のみならず行動に移してしまつてゐると言はざるを得ない。
心がけの惡さとは、要は「自分本位」の立場を反省せず、身勝手な行動を平氣でとつてゐると云ふ事だが、七鍵氏の傳で言へば、さう云ふ「結果」を見て我々は彼等を「正しくない」と評すべきだらう。だが、結果を云々しても甲斐はないのであつて、問題は彼等の「心がけ」であり、彼等の價値觀である。彼等の非道い態度は、彼等の價値觀それ自體から批判しなければならない。
そして、彼等の價値觀を變へる事はできなくとも、第三者の價値觀を變へる事は「あり得る」。それこそが公開の場で議論を行ふ目的なのである。
七鍵氏は、「公開の場での議論」と云ふ事を解つてゐないが、それは、當事者同士の爭ひであると同時に、ギャラリーに對してアピールし合ふ事でもある。互ひに互ひの事を何う思ふか――それを七鍵氏は、大變重視する。しかし、公開の場での出來事にはギャラリーが存在し、議論はさうしたギャラリーにこそ大きな影響を及ぼす。或行動に就いて正しい・正しくないを判斷する前提となる價値――議論の當事者で價値觀の衝突が生じてゐて、互ひに讓らなかつたとしても、ギャラリーが考へを改める、と云ふ事はあり得る。それこそが重要である。
そもそも、公開の場での發言は全て不特定多數に對するアピールなのだ。議論もまたアピールの繼續である。價値觀を衝突させてゐる論者同士、對決してはゐるけれども、對峙してゐる相手だけを考へて言爭ふなんて事は――少くとも戰術として拙からう。七鍵氏だつて、皐氏を相手にしながら、皐氏以外のギャラリーに向けて語つてゐる。
七鍵氏は、自身の考へとは裏腹に、既に議論の常道を行つてゐる。態度として、既に議論を受容れてゐるのだ。となれば、結果からして七鍵氏は自身の價値觀を轉換させるべきであらう。もちろん、意固地になつて從來からの考へに固執する態度を示す事も「あり得る」――が、それもギャラリーが見てゐる事を、七鍵氏は自覺すべきであらう。