闇黒日記?

にゃもち大いに語る

七鍵氏の何とも浪花節的な事よ

他者を批判をするとは、他者の價値觀それ自體を搖さぶる事だ。價値觀は全て論理的だから、價値觀を搖さぶるのにも論理を必要とする。
價値觀を搖さぶる目的は、ゆさぶつて、壞れるものなら壞さうと言ふのだ。なぜ壞すか。壞れるやうな價値觀は間違つてゐるに違ひない――さう云ふ通念があるからだ。壞れる價値觀は壞して、比較的壞れにくい價値觀を殘す。それによつて、より強固な價値觀を見出す。その價値觀は多分眞理に近いであらうと云ふ訣だ。

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http://www.7key.jp/diary/list/2009_03a_01_04
論理的であるといふことは、「批判に對し防衞力が有るといふ」點で、他者との意思疎通には優れてゐる。特に、他者を自身の意見に近づけるといふ點で優れてゐる。が、假に眞實といふものがあるならば、論理的であるといふことは、その眞實に近づくために必要な要素にはなり得ない。なぜならば、眞實は「解釋」でしかあり得ないのだから。眞實とは、餘りにも、如何してこゝまで孤獨なものなのだらう。
眞實とか孤獨とか素敵な言葉を使つてゐるが、未定義で尤もらしい言葉を使つてみても、まあ、「偉さうな口調で空疎な内容の事を言ふ」事以上の事は出來たものではない。
七鍵氏は「眞實は解釋である」と言ふ。だが、眞實と解釋とは別の物だ。なぜなら、眞實はイデア(理念・觀念)であり、解釋とは眞實を明かにする爲の作業に必要なものであつて、イデアなるスタティックなものと、作業なるダイナミックなものとは、「一致する訣がない」からだ。
解釋の積重ねで我々は眞實に接近する――七鍵氏の言葉を借りて言へば、さう云ふ事だ。ならば、我々は、より良い解釋を求めて檢討の作業を繰返すしかない。それの一環として、我々は議論を行ふ。議論とは、單に互ひに爭つて人の勝ち負けを決めると云ふだけの事ではない。爭ひを通して、人は自らの信ずる價値觀を提示し、解釋を提示して、その強度を互ひに計る。互ひに、ではない、議論を見てゐる第三者もまた、計測に參加するのだ。それによつて、議論の當事者のみならず、見てゐる人・ギャラリー、のみならず、それ以外の社會一般の人々が、價値觀の點檢を行ふ事になる。
七鍵氏にしてみれば、さうした作業は個人が各自、勝手に、プライヴェートの場で行へばよろしい、と云ふ事になる。けれども、さうやつてのんびりやるよりかは、議論のやうな「鬪爭」の場でやつた方が、進歩は早く進まうと云ふものだ。しかし、個人がそれぞれ價値觀の修正をしたところで、それを社會的に集積しなければ何の意味もない。となると互ひに自身の作業の結果を開陳する事になる訣だが、その時には何うしても互ひの價値觀の衝突は免れない。意見を公開した時點で、既に「議論は始つてゐる」のだ。七鍵氏にはどうしてもそれが納得出來ないらしいが、公共の場に自分の意見を提出するとは、さう云ふ事だ。
意見を公開の場で述べた時點で、その人は議論の開始を自ら宣告してゐるのに外ならない。