闇黒日記?

にゃもち大いに語る

七鍵氏が私を相手にしたい事&七鍵氏の思想が許せないものである事

私は七鍵氏を名指しで叩く。それは七鍵氏が默認してゐる事だからだ。
なぜ叩くか。七鍵氏が、保身の爲に、人間と云ふ存在を無闇に貶めてゐる事が許せないからだ。人間は自分の利益の爲だけに生きてゐるのではない。自分を越えた理想の爲に生きる事もある。七鍵氏はそれを否定する。それは人間を貶める事だ。だから許せない。

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私は、名指しされて、七鍵氏から「嫌ひだ」とも「讀まない」とも「相手にしたくない」とも言はれてゐない。不特定多數に對して、七鍵氏は一般論を言つてゐるに過ぎない。しかし、その七鍵氏の一般論に、私は當嵌らないと、私は判斷してゐる。

http://www.7key.jp/diary/list/2009_10a_01_02
私の頭の中には、好んで見たくないと記憶されてゐるサイトがいくつかあり、なぜわざわざそのやうなことを言ひ始めるかといふと、その記憶にあるサイトからトラックバックを受けたから。題名と要約は目に入つたから、何を書いてゐるかの想像はしてゐるが、もちろんリンクをたどつてまで讀む氣は起きない。先方は私に相手をして慾しいのかもしれないけれども、私にその氣は全くない。今後も、おそらく、そんな氣は起きないだらうな。好んで見たくないサイトに對する反應は、今囘をもつて最後にする。正直、かなり前に「最後に」したつもりだつたのだが、この世の中にはあへて言はないと傳はらないこともあるので。

これは、私の「ブログ」の事を「言つてゐるのだらうか?」――七鍵氏は「あへて言はないと傳はらないこともある」と述べてゐるが、依然として何も言つてゐない。だから、私は七鍵氏が私の「ブログ」の事を言つてゐるのではないと判斷した。
もし本當に見たくないトラックバックなら、七鍵氏は消してゐる筈だ。既に消されたトラックバックがあつた――それを私は知らないだけなのだらう。
私の「ブログ」からのトラックバックを七鍵氏は消してゐない。だから七鍵氏は私を「相手にしたい」に違ひない。

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七鍵氏の一番許せないところは、「人は全て自分本位で物を言ふ」と主張してゐる事だ。七鍵氏は、保身の爲に、人間を最低の存在に貶めてゐる。それが許せない。個人の保身の爲に人類全體を犠牲に供する主張は、絶對に許されない。それは獨善の最たるものだ。

http://www.7key.jp/diary/list/2009_09c_23_04
人間だれしも自分本位なものです、自分本位な感覺はなかなかゼロにはなりません。特に、意見といふものは自分本位のかたまりのやうなもので、それを、知人であれ親友であれ、見知らぬ他人であれ、ぶつける際には、先ずはそれが自分本位であることを理解しなければならないのです。百個あるうちの一個が自分本位なのではありません、濃度のやうなものといへば理解していただけるでせうか。自分が相手本位でものを考へられてゐると感じるのは勝手ですが、百に一つくらゐは自分本位が混じつてゐるものです。自分以外に意見をいふ際は、氣をつけなければなりませんね、お互ひ。

「お互ひ」等と言つてしかつめらしく述べてゐるが、七鍵氏は、「七鍵氏以外の全ての人類」が、「自分本位」であるに決つてゐると思つてゐる。自分を棚に上げて他人だけを罵る癖も氣に入らないが、「自分を含めて」でも同じだ、「人類」「人間」一般を「自分本位」の存在と定義する事は、許されない。
人間は、自分の利益を求める事もあるが、利益を求めるだけの存在ではない。話はまるで逆だ。
人間は、利益優先の功利主義の世の中になればなるほど、心理的に抵抗を覺える。利益の爲に生きる事にあきたらなくなる。「それは合理的ではない」と、七鍵氏は言ふだらうか。だが、人間は不合理の生き物でもある。
自分にとつて利益にならないとしても、正義の爲・理想の爲に、人は屡々、言葉を吐き、行動をとる。
葦津珍彦は、テロリストの存在を示して、人が功利主義を超えた行動をとる事のある事實を示した(葦津珍彦の主張シリーズ第四巻「土民のことば」葦津事務所)。葦津氏は述べてゐる。
政治といふものの中に個人の生命以上の尊い價値をみとめる思想は、今日の保守革新を通じて一般的なものではあるが、それは論理的には、常にテロへ走る思想の前提となるものではないか。政治鬪爭が白熱化して、政治危機が極度の緊張を呈するとき、この鬪爭に全生命をささげ、生命を捨てても敗けてはならぬとの決意がある。生命以上の貴重なるもののために、生命をうばひ生命を棄てるとの思想が生れて來るのは、避けがたい論理である。今の日本でも、保守革新を通じて、多くの人々は、政治の中に、個人の生命以上の貴重なものがあると信じてゐる。その貴重なるものが何であるか、その貴重なるものを、いかにして求め、守るかといふ點での對立がある。然うだとすれば、この政治の領域は、テロを發生せしむべき條件を潜在的に固有してゐるといはなければならない。
出典:「神苑の決意」
葦津氏は、「非合理なるものへの憧れ」で、人は決して「合理的」なだけの状態に滿足できない事を述べてゐる。
「樂しむために登山するのは合理的だ。健康のために登山するのは分る。だが山登りのために命を失つて、何のためになるのだ」なる「凡俗の合理主義者」の疑問に對して、斯う説明してゐる。
何のためになるのだらうか。私は、明治時代の先人の説明を想ひ起す「自分の心を樂しませるためのもの、それは娯樂であり趣味であるにすぎない。自分の心が苦しめられ、自分の命が失はれようとも、その事のために全力をつくさざるをえないもの、そこに初めて藝術がある」と。これは強ち藝術にのみ限つたことではあるまい。古代東洋の碩學孔子も、論語の中で語つてゐる「朝に道を知れば、夕に死すとも可なり」と。これが一道をもとめる人間の情熱である。だが情熱なき實利的合理主義者には、それが分らない。「道が分つたからとて直ぐに死んでしまつたのでは、その知識は何のためにもならない」と。かれらには凡俗なる心を樂しませる娯樂や趣味は分る、生活のための手段としての職業は分る、だがおのれの凡俗なる生活上の利益とならないものは、すべてが不合理に見える。こんな淺はかな合理主義では、この人間世界は、あまりにも不可解な事象に滿ち滿ちてゐるはずである。だがそれにも拘らず、現代の知識人は、その凡俗なる合理主義思想をもつて、一切を割りきることができるかのやうに思つてゐる。

七鍵氏は、一見「超合理主義」の立場をとり、論理を輕視してゐるかのやうに振舞つてゐる。けれども、そこにあるのは、人間が全て合理的に=「自分本位」に動くものである、との、現代的な餘りに現代的な思想である。
斯うした「凡庸な合理主義」を主張するのは、平和主義者もであると葦津氏は指摘してゐる。七鍵氏は、さうした平和主義者の一員である。「臆病なエゴイストの立場からの平和主義だ。かれらは臆病でエゴイストであることをもつて『合理的』だと思つてゐる。」――七鍵氏も、さうである。
が、葦津氏は反論する。
だが生命力の強い少年たちは、合理的なエゴイストや臆病者が本能的に嫌ひだ。
そして。
臆病でエゴイスティックな平和主義者ほど信頼しがたいものはない。かれらは集團的組織の暴力で、利己目的を達し得るとの合理的な見透しが立てば、いつでも平和を棄てて鬪爭の戰線に立つ。だがもともと利己的なことをもつて合理的だと信じてゐるかれらは、身を殺して仁を爲すといふやうに、おのれ一個を犧牲に供することがない。かれらが犧牲を必要とするときには、あくまで「割り勘」主義だ。それが合理的だと信じてゐる。集団暴力で暴れても、つねに群衆の中に紛れて逃亡することを考へてゐる。それも味方が多く優勢で、勝利への確信のある時の話だ。優勢なる敵に對して戰ふものは、「非合理で無知な、神風特攻隊だ」と信じてゐる。
だがこんな日教組流の合理主義教育にも拘らず、少年たちは、勝敗を無視するのみか、必戰必敗を期して正義の爲に戰ふ映畫の英雄に感動する。ブダペストの多くの少年たちは、ソ聯の戰車がハンガリーの叛亂を壓殺したときに、絶望的な戰況の中で、英雄のやうに死んで行つた。アルジェのコロンの少年たちは軍隊に反抗するバリケードの中に續々として集まつた。かれらに政治知識があるのではない。かれらは「祖國のために」父や兄が戰つてゐるのだと信じた。それを信じることができさへすれば、かれらは英雄のやうに戰ひたいのだ。この少年たちの英雄心が、ほんたうの人間の本能なのか、それとも狡猾で臆病なエゴイストの姿が、本來の人間の姿なのであらうか。
俗物合理主義者は「本能の欲求にしたがふべきか否かを理性で合理的に判斷せねばならぬ」と考へてゐる。だが、かれらの本能の欲求は、人間の本能の中で、もつとも低劣であり、しかも判斷の主體たる「理性」が、平板にして底が淺い。かれらは「並下級の既成品」的な人間像のほかには、人間を想像しえない。既成品の型に合はないものを、ただ「非合理」といふ。
葦津氏は、所謂「合理主義」或は「功利主義」の立場を、底の淺い人間觀だと喝破する。そして、斯うした主義が現代の世界を席捲しつゝある事を指摘し、しかし「社會の合理化」に抵抗して「少年の不良化」が生じてゐるのは「おもしろい」と述べてゐる。人間は社會の「合理化」に我慢できるほど合理的な存在ではないと葦津氏は言ふのである。人間は「自分本位」なだけの存在でゐる事に耐へられない。「非合理なるものへの憧れ」が人間には「ある」と言ふのだ。私は葦津氏に賛成である。そして、さうした「非合理」的な人間の性向を考慮に入れない人間觀を、私も「底の淺い」見方だと思ふ。
かれらは、封建教育で作られた世代の人間では決してない。かれらを教育したものは、現代の合理主義なのだ。だが、かれらは合理主義のワクの中では、滿足しきれない人間的な欲求を禁じえないのだ。
――今の私の説明では、順序が逆になつたが、斯うした人間觀を示してから、葦津氏は、テロリズムの説明に入つてゐる。

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七鍵氏は、しかし斯うした「不合理への憧れ」を認めない。只管人間は「自分本位」であると主張する。そして、七鍵氏に同調するKirokuroが言つてゐるのだから七鍵氏もさうなのだらうが、「テロリストのやうな不合理な行動」を、七鍵氏はただただ「迷惑だ」と言つて退けるだけなのだ。だが、さう言ふ七鍵氏の人間觀それ自體が(もちろん、Kirokuroのそれも、だ)、私にはいんちきだと思はれる。