「發言する資格」
私は「公共の場で發言する資格」なんてものは存在しない、誰にも「言論の自由」が認められてゐる、と云ふ立場だ。だから私が發言する事について、私自身が「資格」を檢證する必要はない。
Kirokuro氏らは、「公共の場で發言する資格」は「ある」と主張する。が、さうした主張をする時、その價値觀を他人に適用するより前に、Kirokuro氏らはその價値觀を自分自身に適用する義務がある。なぜなら、自分で自分の主張を否定してはならないから、自分は自分の主張に從つて正當である事實を證明しておく必要があるからである。その證明を怠つてゐるならば、他者から證明を要請されねばならない。
自分自身に發言する資格がないのに、「資格がある」かのやうに振舞ふ=公共の場で發言してゐるならば、「資格が必要である」とする價値觀は間違つてゐる、と云ふ事になる。自分の價値の正當性を、自分の行動と云ふ事實が反證する、と云ふわけだ。
自分自身に發言する資格がないのに、「資格がある」かのやうに振舞ふ=公共の場で發言してゐるならば、「資格が必要である」とする價値觀は間違つてゐる、と云ふ事になる。自分の價値の正當性を、自分の行動と云ふ事實が反證する、と云ふわけだ。
★或價値觀を自分(=論者自身)に適用しようとして、適用したら自分(=論者自身)を否定する事になつてしまふ――「發言するには資格が必要」と云ふ價値觀を自分(=論者自身)に適用して、「自分(=論者自身)に發言する資格がない」と云ふ結論が論理的に引出されるならば、「資格が無いお前(=論者自身)は、發言してはならない」と云ふ價値觀の命令に從つて默るか、價値觀を否定して自分(=論者自身)の發言する權利を確保するか、そのどちらかしか、とるべき途はない(が、その「發言する資格は必要」なる價値觀は、最早主張を自ら抑止しなければならない)。
何れにせよ、論者はその價値觀(「發言する資格は必要」)を主張する事が出來ない。默らねばならない。
「默らねばならない」――私・野嵜が、その人・論者を默らせるのではない。その人の價値觀そのものが、論理的にその人・論者に「默れ」と命じてゐるのである。
「默らねばならない」――私・野嵜が、その人・論者を默らせるのではない。その人の價値觀そのものが、論理的にその人・論者に「默れ」と命じてゐるのである。
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論理の命令に從ふならば、Kirokuro氏は默るしかない。その時、責任は、その價値觀を主張したKirokuro氏自身にある。勿論、默らない事も、事實として可能だが、その時、既にKirokuro氏の主張は破綻してゐるのであつて、破綻した主張に固執しても、論理的には何の意味もないし、意味のない事を盛に主張しても、論者として評價されないだけである。
論理の命令に從ふならば、Kirokuro氏は默るしかない。その時、責任は、その價値觀を主張したKirokuro氏自身にある。勿論、默らない事も、事實として可能だが、その時、既にKirokuro氏の主張は破綻してゐるのであつて、破綻した主張に固執しても、論理的には何の意味もないし、意味のない事を盛に主張しても、論者として評價されないだけである。
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――が、今の檢討は、論者の「資格」が何うである・斯うである、と云ふ價値觀それ自體の檢討ではない。
ただただその人の主張する價値觀から引出される論理的な歸結について、説明したに過ぎない。私は發言する資格の話をしてゐるのではなく、「資格の話をしようとする論者の論理」を問題にしてゐる。ただ、論理的な歸結として「發言者が默らねばならなくなる状況が出來する事がある」と指摘してゐるだけだ。
そして、論理を問題にするのは當り前で――なぜなら、論理は、論者の主觀や價値觀とは全く關係なく、「存在する」ものだからだ。論理なるものは、論者が受容れる・受容れないによつて、發生したり消滅したりするものではない。何時でも普遍的に存在するものだ。
――が、今の檢討は、論者の「資格」が何うである・斯うである、と云ふ價値觀それ自體の檢討ではない。
ただただその人の主張する價値觀から引出される論理的な歸結について、説明したに過ぎない。私は發言する資格の話をしてゐるのではなく、「資格の話をしようとする論者の論理」を問題にしてゐる。ただ、論理的な歸結として「發言者が默らねばならなくなる状況が出來する事がある」と指摘してゐるだけだ。
そして、論理を問題にするのは當り前で――なぜなら、論理は、論者の主觀や價値觀とは全く關係なく、「存在する」ものだからだ。論理なるものは、論者が受容れる・受容れないによつて、發生したり消滅したりするものではない。何時でも普遍的に存在するものだ。