闇黒日記?

にゃもち大いに語る

根本的な價値觀の違ひ

我々と爺氏との間で意見が合はないのは、彼我で信ずる價値觀が根本的に異るからだ。

爺氏が今何を言つてゐるか、見に行く氣がしないので見てゐないが、佐藤さんが報告してゐるのを見れば大體解る。爺氏は、他の一般の現代日本人が信じてゐる價値觀を普通に信じてゐるだけだ。が、その價値觀が大變に惡いものであると私は思つて拒否してゐるのであり、ならば彼我で意見の合ふ訣がない。

「歴史的假名遣は科學的でも正しくもない。既に社會的に排除された古い規範であり、その古い規範で書かれた文獻を解讀するのにしか役に立たないし、或は暇潰しで遊びに使ふのにしか使へない」――爺氏の考へ方はさう云ふ物だが、一般の日本人は皆、さう思つてゐるだらう。

けれども、歴史的假名遣は、科學的であり、正しいのであり、社會的に排除されてゐるのは排除する方が惡いのであり、昔の文獻と今の文獻とで同じ書き方をした方がいいのであり、眞面目に文章を書くのに使ふべきである。

爺氏は、人文科學は科學ではない、なぜなら自然科學ではないからだ、と主張してゐる。自然科學ならば、法則性があり、觀察等が出來る、けれどもそれが人文科學なるものでは出來ないではないか、人文科學は自然科學ではない、よつて科學ではない――爺氏はさう主張してゐる。
なるほど、私も爺氏の要求に引張られて、人文科學にも法則性への傾斜がある事を強調した。が、人文科學は、本質的に自然科學と正反對の性質を持ち、特殊性への傾斜が激しい。が、さう云ふ人文科學であつても、科學として認められてゐるのであり、自然科學と違つてゐても、自然科學と同じ方法論で研究が行はれるべきであると信じられてゐる。
爺氏は、人文科學と言つてはならない、人文學と呼べ、と主張する人々の仲間であるのだが、しかし極端に人文科學の性質を狹く規定する――即ち、昔の世間知らずのお孃樣か、武家が馬鹿にした「お公家さん」が、「蝶よ花よ」と楽しく遊ぶ事、或は、趣味の「お歌の世界」、さう云ふものを「人文科學」だと主張し、或は人文科學をさう云ふ「遊びの世界」に押込めようとする。

けれども、國學以來、人文科學の再認識が行はれ、さらに、西歐からの近代流入によつて、我々日本人は最早、趣味の世界のもの・遊びの領域のものとして、藝文を認識する事は不可能になつた。それは既に人文科學の領域である。
そして、表記の問題を論ずる人逹は皆、それを趣味の世界の話としてでなく、現實世界の問題として、科學的に論ずべき事を――少くとも建前としては皆、信じてゐたのだ。
それは明治以來の日本の基本方針が、最早過去の時代とは異る、近代化を目標として切替つてゐたからであるのだが、我々現代の日本人は案外さうした近代日本の大方針と云ふものを、意識してゐない。それどころか、今の日本人は、只管自分逹を無意識の領域に押戻し、無知の領域に自らを留めておく事で、何も知らない無垢な子供のやうに樂しく人生を送れるやうにしたいと願つてしまつてゐる。
「歴史的假名遣は、專門家の占有物か、趣味の玩弄物の領域に、押込めておくに越した事はない」と考へる爺氏にしても、「歴史的假名遣でなければ何だつて良い」式の主張をした何處ぞのブロガー氏にしても、結局のところ、明治以來の日本の近代化と云ふ事は全く考へてゐない。他の全ての日本人も、考へてゐない。ただただ、明治政府は、江戸時代以前の「なつかしい日本」を破壞した極惡非道な存在であると「感じてゐる」に過ぎない。
が、その「感覺」が曲者なのであつて、今の世の中、全て「感覺」で人は動くから、明治政府を惡者と看做す「感覺」の正邪を反省する人はゐない。今の我々が近代化された社會に生きてゐるのは、明治に我々の御先祖樣が一生懸命日本の社會を近代化せしめるべく努力した結果である訣で、それを認めない訣には行かないのだが――しかし今の日本人が、明治政府を惡者にするには、「日本は戰爭をやつて、徹底的に負けた」と云ふ「理由」が故事つけられる。

爺氏にしてもブロガー氏にしても、「明治政府は惡い、だから戰爭で負けたんだ、因果應報!」と云ふ考へ方を持つてゐるに違ひない。それで彼等は、明治政府以來の近代化の試みを全否定し、明治政府の採用した歴史的假名遣を貶めるのに躍起になる。
大東亞戰爭で日本が負けた時――その時を以て、「敗戰前の惡い日本」と「反省した敗戰後の良い日本」とを、綺麗に分けて、それで「今の我々は、禊が済んで、すばらしい人間になっているのだ!」と、今の日本人は言はうとする。その爲には、戰前と戰後とを斷絶させねばならない。その斷絶が大きければ大きいほど、「現代の日本人を正當化する」には都合が良い、と、現代の日本人は考へた訣だ。爺氏もブロガー氏も、さう云ふ考へである事は、間違ひない。現代的な左翼はみなさう考へるのである。
然るに、さうした斷絶を認めるにしても、矢張り人間と云ふものは、過去と繋がつてゐなければ、不安で不安で仕方がない。だから、爺氏は何となく歴史的假名遣を使つて見てゐるし、ブロガー氏は「定家かなづかひ」やその他の便宜かなづかひを據りどころにしようとする。

が、間を拔かして、それより前と直接繋がらうとする態度が許されるなら――歴史的假名遣が「古代の日本語」に直接繋がらうとする態度も當然許される筈だ。

實際、契冲以來の歴史的假名遣の態度は、一般にさう解釋されてゐる。「古代に戻つて何うするの」式の揶揄は何度も聞いた。しかし、その揶揄をする人が、歴史的假名遣を「趣味」として認める爺氏や、定家假名遣や便宜假名遣に囘歸しようと言ふブロガー氏を非難する事は無い。要は皆、歴史的假名遣だけが憎いのだ。明治政府が憎い、敗戰前の大日本帝國が憎い――よつて歴史的假名遣も憎かるべし。あーあ。

だが、近代化の方針を定めた明治政府が、實際の政治に於て樣々の過ちを犯し、その結果として敗戰に突進んだとして、惡いのは方針だらうか。葦津珍彦氏が指摘してゐるが、過ちとして指摘されるべき事柄がなぜ過ちであるのかと言へば、それは近代化の方針に反してゐるからだ。近代化の方針は全く間違つてゐないと言はねばならない――が、ならば、その方針は現在も繼續して維持されねばならないのであり、その方針に從つて我々は近代化の努力を繼續しなければならない。そこでは、歴史的假名遣の整備は、明治以來の近代化の方針にぴつたり適つた事であつて、それを否定してしまふのは非常に拙い。

敗戰後の日本の「新しい方針」は、日本を破つた戰勝國――具體的にはアメリカが持込んだもので、それが當初は日本弱體化と云ふ大方針と共に、アメリカ人らしい樂天的でお人好しな理想主義であつたと、矢張り葦津氏は指摘するのだが、それが朝鮮戰爭以來、微妙に少しづつ「ずれ」させる事で、「現實對應」がなされてきた。濟し崩し的にアメリカ占領軍の考へた方針は否定され、日本は「まともな國」らしい行動をとるやうに、考へ方が改めさせられて來た。
が、それでも、依然として占領政策は生きてゐるのであり、その影響下で、我々は樣々な思想を「自らが持った」かのやうに勘違ひしながら生きてゐる。と言ふより、日本人は占領軍に阿諛追從し、自ら自分の精神を改造したのであつた。表音主義者が強行した漢字制限の政策も、占領軍の方針に我々は積極的に從つたのであり、占領軍の考へた政策のはるか「上」か「下」を行く急進的なものになつてしまつてゐる。權力者自身が押附ける政策よりも、權力者に追從し、氣にいられようとして、率先してその意を迎へて實施する政策の方が、遙かに急進的なものである。
それが、漢字廢止でなく、漢字制限に留まつたのは、抵抗派の存在があつたからだが――私は今、あの時、抵抗派と急進派との間で「妥協」が成立し、曖昧な「制限」に留まつたのは、良かつたのかと疑つてゐる。あの時、本當に急進的に日本語の表記が變へられてしまつてゐたら、反動はもつと強く起きたのでないか。非道い方向に一度、日本を振らせてしまつて――しかしさうしたら、日本は完全に破壞されてゐただらう。しかし、徹底的に破壞しないぬるさが、日本に於て曖昧で――不快な状態を何時までも殘す結果に繋がつてしまつてゐるので無いだらうか。

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明治政府による近代化の大方針を認めるか否か――これは大變深刻な問題で、爺氏・ブロガー氏、或はKirokuro氏と、私との間で、完全に考へ方が分れる所以である。
彼等は、明治期から昭和初期までの近代化の努力を全て否定し、明治以前を切捨てて戰後の世界だけに引籠るか、或は戰後と江戸時代以前とを直結させて近代以前に戻るか、そのどちらかに日本がなる事を望んでゐる。
私は明治以來の努力を繼續すべきだと考へてゐる。
しかし、明治以來の近代化は、明治以前の日本の歩みと、繼續するのであつて、私の考へ方ならば、日本の歴史に一本筋を通す事が出來る。と言ふより、さう云ふ考へ方を示して呉れたのは、松原正先生であり、福田恆存であり、葦津珍彦であり、或はその他の多くの思想家であるが、さう云つた人々の考へに私は同意する。私の考へと言ふより、私自身の利己的な考へ方を放棄して、尊敬すべき人々の考へに私は從はうと思ふわけである。

現代の日本を、現代の日本人が現に生きてゐるからと云ふだけの理由で肯定するのは、大變利己的な考へ方だと思ふ。我々は歴史に學ばなければならない。今の人間の生き方は、過去の人々の生き方を見て、正さなければならない。少なくとも、自分自身を基準に自分を律する事は不可能だから、立派な他者を見て自らを律しようとするのは――道徳的な發想を持ち得る人ならば、自然に思ひ附く事だらう。逆に言へば、他者を見て自分を律する必要はない、自分は自分の好きなやうに生きれば良いのだ、と考へる、爺氏やブロガー氏、Kirokuro氏、等々の人々は、道徳的な發想がそもそもないのだと言ふ事が出來る。
――實際のところ、彼等は他人の足を引張る目的で道徳の事を言ふが、自分自身、どれだけ立派な人間「である」だらうか。私は、自分自身が立派だと言ふ氣はないが、だからこそ「立派であらうと努力する」必要を認める。「既に立派である」ならば努力する必要はないが、「まだ立派でない」のだから努力する必要があるに決つてゐるので、そこで私は努力の意義は肯定するのである。