闇黒日記?

にゃもち大いに語る

道徳的判斷は相對的な價値判斷か

何時如何なる場合にも例外なしに「私は偉い」と言つてはならない――これは眞實だ。そして、眞實を基にすれば、論理的に正しい結論を引出す事が出來る。當り前だ。
――だが、七鍵氏にはそれが解らない。なぜ解らないか。七鍵氏は、「自分は偉いのだ」と本氣で信じてをり、それを惡い事だと全く思つてゐないからだ。

自分で自分を賞賛する――これは飛んでもない傲慢を意味する。絶對に許されない。
しかし、それが許されない事だとは、七鍵氏にとつて、思つてもみない事である。七鍵氏は、自分が偉いのは事實だから、それに「傲慢なるレッテル」を張つて非難するのはをかしいと思つてゐる(Kirokuro氏もさう考へてゐる)。「偉い七鍵氏」に意見しようとする「下賤な輩」を、「偉い七鍵氏」は上から目線で説教して良い――七鍵氏は、自然にさう思ひ込んでゐる。

「個人の間では價値觀が異る」――にしても、七鍵氏やKirokuro氏の價値觀は異常である。或は、今の時代には、明かに異常である。なぜなら、「自分は偉い」「他人は偉くない」と端から極附け、人間である相手を「人間以下」の存在と看做すのは、偏見だからである。

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岩波新書で『奴隷とは』と云ふ本が出てゐて(青版757)、アメリカの黒人奴隷の事が書かれてゐる。この手の本を讀んだ多くの讀者は、黒人に同情し、白人に怒りを覺える事だらうと思ふ。

氣を附けなければならないのは、黒人も人間であり、白人の暴虐に對し、人間的に「抵抗」を繰返してゐた、と云ふ事だ。もちろんその「抵抗」では、制度それ自體を打倒する事など到底出來なかつた。
しかし、黒人は、ただただ純眞無垢なだけの存在でゐたわけではない。人間なのだから當り前だ。ずつと復讐心を抱き續け、狡猾さも利用し、白人に精神的な(時には暴力的な)「抵抗」を續けてゐた。「奴隷たちの大多数が、もし白人の持っている武器をもっていたとしても、それをかれらが使わなかったろうと、しかも効果的には使わなかったろうと、そんなふうに決して考えるべきではない。」(p.162)――それは兔も角。

制度として偏見を公認した社會、そして、偏見の對象として特定の人間が定められた社會があつた。確かに一種の「恐怖社會」である。アメリカにおける黒人奴隷の歴史は知つておくといい。
しかし、アメリカの白人は、黒人を人と看做さず、黒人にとつての「恐怖社會」を作り上げながら、同時に自由の觀念を發達せしめた。この事は一見、矛盾に思へる。
しかし、七鍵氏が指摘するやうに、矛盾は説明があれば解消されるのだ。自由の「概念」があつても、その「適用範圍」を狹める事で、心に呵責を覺える事なく、人は殘虐な事を出來てしまふ。
だから「人を人未滿のものと看做す」價値觀だけは排さなければならない。如何なる理由を附けても「人を人未滿のものと看做す」事は正當化されない。


かういふ道徳の話で、間違つてゐるか否かなど自身の價値感でしかないのだが、かういふ輩は自身の感じる道徳に「理」があると思ひこむ、ばかりか、それを論據に「何か利――理ではない」があつて他者を貶めようとする。どれだけ傍若無人なのだらう。道徳とはそれほどまでにも便利なものなのか。