闇黒日記?

にゃもち大いに語る

ありのままの日本語を認められない人々


「典型的な勘違ひ」と書かうと思つたのだが、よくよく讀んでみると、さう非道い勘違ひをしてゐるわけでもない。

ニッポンの「国語なんたら審議会」には刺客を送り込まれ、全国の国語の先生たちからはカミソリを送られてきそうなことなのだが、
かつての国語審議会は日本語の簡素化、それもここで提案されてゐるのよりももつと非道い事をやらかさうとしてゐたので、怒られる事はないと思ふ。
學校の先生方も、多くは日本語を簡單にして子供に樂に教へられるやうにしてほしいと願つてゐるから、簡素化には大賛成だらう。

「対中国語」という言語コンペティター戦略で考えると、日本語は「かな」を持っているだけで大幅に有利だから、「日本語できる非日本人」を増やすことが、中国語よりもやりやすいという点が生かせないか、と考えるわけだ。
言語が易しいからユーザが多い、と云ふわけではない事は、英語のユーザの多いのを見れば自明。鈴木孝夫の著作を參照。

なほ、戰前から戰中にかけて、植民地の人に日本語を教へるため、と稱して、表音主義者の連中が國語の簡易化=漢字廃止の主張をやつた事がある。それをそつくり國内向けの政策に轉用して實施したのが戰後の国語改革だ。

日本語習得の最初の敷居はそういうわけでそれほど高くない。
云々。語を覺えるのと發音を書き記すのとを混同してゐる。

棒引き假名遣ひなんかは、戰前に一度、實施されてゐる。

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個人的にひつかかるのは、やはり結論部。

簡素型日本語に慣れるにはちょっと時間がかかるだろうし、高齢者を中心に反発は多いだろうけれど、明治や戦後に同じようなフェーズを経てきたわけだ。そのときは「外国のものを習って、追いつき追い越す」ための言語体系変更だったのだが、今なら「別の戦略」をベースにしてモデルチェンジしてもいい時期ではないか、などと愚考する。
國家戰略なんかのために言語を改造する事は許されるのか。案外この手の「國家主義」は、今の人でも當り前のやうに主張するのだが、私にはどうしても理解できない。なぜそこまでして國家國家と言はなければならないのだらう。

日本語が日本語でなくなつて、さう云ふ日本國になつて、それで多くの人々がその改造された謎の國家の繁榮に貢獻して呉れるやうになつたとして……それで何か意味があると言ふのだらうか。その時、日本人は最早日本人ではなくなつてしまつてゐるのだ。
だとしたら、日本は最早世界に何も貢獻してはゐないのだし、改造された日本語を使ふ人は、日本語を使つてなどゐないのだから、日本語はその時、地上から消滅してゐる事になる。そして、日本語の消滅を、日本人自身が促進した、と云ふ歴史的事實だけがこの世に殘る……。

なぜそこまでして、世界の人に媚びて、日本語を使つていただかねばならないのだらう。卑屈外交と云ふ奴だ。少くとも、日本語を改造して、みなさまに使つていただくなんて、そんな發想は駄目だらう。そんなに日本人は自分達の日本語が大事でないのか……使ひ手自身が駄目だ嫌だと思つてゐる言葉を、ありがたがつて使はうとする人が、世界にどれだけゐると言ふのだらう。
否、ゐた、としても、さういつた人々が利益だけのために使ふとしたら、利益を認めなくなつたら即座に日本語は捨てられると云ふ事だ。利用されるために改造され、利用できなくなればぽいと捨てられる日本語。
言語を利用する、と云ふ發想それ自體が、私には大變に嫌らしいものに感じられる。自分が使つてゐる言語に、少しは愛着を持つたらどうかと言ひたいが、改造を主張する人々も、それなりに愛着を持つてゐて、ただ違ふ「論理」で考へてゐるだけなのである。となると、その「論理」それ自體のをかしさを指摘し、非難しなければならない。
が、「改造しないでみすみす衰亡させるのがよいのか」などと彼らは言ふのだ。「改造して、原形を損つてでも、何らかの形で殘ればいいではないか」。私には、さうまでして日本語を殘したいと彼らが本氣で思つてゐるのか、疑はしく感じられるのだが、「論理」を言へるのなら彼らは幾らでも言ふのである。