闇黒日記?

にゃもち大いに語る

やつぱり私の誤讀ではないと思ふ

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ujimusi氏みたいな人には、また嫌はれる原因になるんだらうけれども、釋明と言ふか説明。

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「闇黒日記」本家版
http://noz.hp.infoseek.co.jp/diary/20091001.html
で、以下の「ブログ」の記事に觸れたのだけれども(平成二十一年十月三十日)。


「闇黒日記」で、私は斯う書いた。
「何を問題にする議論」か――そもそも「議論とは何か」を定義しないで、何となく「議論」つぽいものの事をあれこれ言つても仕方がない。この人も、「議論」と「喧嘩」とを全然區別してゐない。罵倒とか相手を叩くとか、さう云ふ現象を、議論の一屬性と見ず、議論の本質と勘違ひして、面白をかしく語つてゐる。
例へば、野嵜とKirokuroとの言爭ひは、議論ではなくただの水掛け論だが(責任は全てネガティヴキャンペーンを仕掛けて好い氣になつてゐるKirokuro一人にある)、斯うした下らない言爭ひすらも「議論」の一種だと勘違ひし、「議論なんて下らないものだ」と一蹴して見せる「頭の良い人」が、ウェブには澤山ゐる。
話の内容を見る事が出來ない人は、世の中に大變澤山ゐるのであつて、だからさう云ふ連中を欺して自分に都合良く世の中を引張つて行かうとするKirokuroのやうな「頭の良い人間」が大手を振つて世間を渡つて行けるのだが――しかしさう云ふ輩の跳梁跋扈を認める人間しかこの世に存在しないのなら、議論をやつて世の中を良くして行かうなんて考へる方が馬鹿だし、そもそも世の中なんて良くなる訣がないから努力しない方が良いと云ふ事になる。冗談ではない。

これにクレームが入つて。


取敢ず謝罪したんだが、三日も四日も經つてゐるので私自身經緯を忘れてゐたし、そもそも斜め讀みしかしてゐないから(別に積極的に非難する積りナシだつたと云ふ事)良く覺えてゐなくて、それで取敢ず謝つたと。けれども、よくよく思ひ出して見ると、別に誤讀はしてゐないんだ。

圖1
Aは、メモ8さんが考へる「議論」=「異なるテーゼがぶつかり合った結果、止揚される事にその面白さの本質を持つもの」。「個人個人の持つ價値觀は重なり合ふところがないから、どちらが正しいと決めることは絶對に出來ない」=「價値相對主義」の立場と言つてもいい。メモ8さんや七鍵氏の立場。
Bは、メモ8さんが非難し、私も非難する「議論」=「相手を罵倒したい、一方的に叩いて、いい気分になりたいという人のする事」。Kirokuroなんかの立場だ。
Cは、私が考へる「議論」=「物事の正邪を明かにする爲の討論・論爭」。ここでは、個々人が持つ價値觀の相違を認めるけれども、相互に批判し合ふ可能性を認めてゐる。私の立場。

メモ8さんは、Cなる領域の概念を認めず、それをBの中に含めてしまつて、非難してゐた――さう私は解釋した。→圖2

私は、「B=喧嘩」「C=議論」だと思つてゐるから、そのCをBの中に繰込んでしまふメモ8さんの考へ方を、「「議論」と「喧嘩」とを全然區別してゐない」ものだと判斷し、「罵倒とか相手を叩くとか、さう云ふ現象を、議論の一屬性と見ず、議論の本質と勘違ひして、面白をかしく語つてゐる」と批判した。

全て「議論」と云ふ用語で表現されてゐるからややこしくなつてゐるのだけれども、概念で整理して見れば大してややこしくもない。ただ、私とメモ8さんとの間で、Bなる惡の立場の責任を互ひに押附け合つてゐるのであつて――ただメモ8さんにはCなる「議論」の立場の本質は「勝つ爲の議論」であり、Bの内であると云ふ發想がある。この發想を、私は認められないわけだ。

私の考へ方は、圖3で示す通り――即ち、AとBとはともに「正しさと云ふ概念を認めない」態度であるので、一つの立場と看做す。

と云ふ訣で、私の表現は、なるほどメモ8さんの表現と異るから、メモ8さんは「誤讀」と言つて非難したのだけれども、單に「用語の違ひ」であるに過ぎないのだから、「誤讀」と云ふ非難は當つてゐない。そして、圖を見れば猿でも解る事だが(註、「猿」は七鍵氏の發言からの引用。まあ野嵜みたいな「猿」でも解つたと云ふ事)、私の立場と、私の用語を尊重する限り、私の言ひ方は正しいと認めて貰はなければ困る。

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價値相對主義の人から「誤讀だ」と云ふ非難が發せられるのを最近立續けに聞いたわけだけれども――公共的な・公益性のある「正しさ」を主張する際の「勝ち負け」は「認められない」と言ふのに、個人的な「正しく解釋する事」を主張する際の「勝ち負け」は「認める」と言ふのが解らない。
個人の發言を解釋する方法に「正しさ」が「ある」のなら、公共性・公益性と云ふ意味での「正しさ」も「ある」ものだらう。それを言ふのは何故ダメなんだらうか。

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追記
いや、しかし、メモ8氏は、今、「誤読は自由である」と書いてをられるんだが、これが何を意味するんだか、解らない。「正しく解釋して欲しい」けれども「誤讀は自由である」――メモ8氏は一體何を主張してゐるんだらう。
私もウェブでは十年選手で、それなりに「經驗」があるのだけれども――價値相對主義者の人は常に、何を要求してゐるか、何をすべきである・何をすべきでないと言つてゐるか、わからない「主張」をする。さう云ふ事實は「知つてゐる」けれども、それに何う應じたら良いのか、全く解らない。未だに解らない。何かの羂なのだらうかとしか思へないのだが、價値相對主義の立場からは斯う云ふ鵺的な「主張」しか出來ないのだと云ふ事は一往「理解」してはゐる。
けれども、鵺的な主張をする事は、それ自體として、公共の場では「許されない」ものだと私は思ふのだが。


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最う一つ追記
メモ8さんが反論を書いて呉れた。


何うしても用語に拘りがあるらしい。が、メモ8さんの用語で私は語つてゐないと云ふのに、メモ8さんは何うしても納得が行かないらしい。何うして價値相對主義者と云ふ人は斯うも頭が固いんだらうと不思議に思ふが、當人は用語の相對性を認めないのが當然と思つてゐるから處置なし。

しかし、今までも、私の事を非難して呉れた人のほぼ100%が、この「野嵜の用語は私の用語と違ふ」と云ふだけの理由だつたりする。しかし、辭書の定義だけで話が出來る程、世の中も人間も簡單ではないよ。それが簡單に物事を割切れる價値相對主義者には解らないらしい。

私がメモ8氏の「議論らしきもの」と「一方的な言いっぱなし」の區別になんか興味がないと云ふ事實、さう云ふメモ8氏の「正しさへの視點の缺如」を問題にしてゐると云ふ事實が、メモ8氏には何うしても「誤讀」に見えてしまふらしいのだ。
だが、私が私の用語で文章を書き――私の考へるより限定された意味での特殊な用語を使つてゐる事實を、メモ8氏は受容れなければならないし、私の視點をメモ8氏は理解しようとしなければならない。私は一度、メモ8氏の物の見方を理解して、それを私の價値觀に基いて再分析して、示しただけだ。それは、「人は誰でも問題意識が違ふし、價値觀が違ふ」と云ふ常識に合致する態度で――それを受容れないメモ8氏は「常識がない」と言つて良いと思ふ。