闇黒日記?

にゃもち大いに語る

個人的な餘りに個人的な その一

と言ふか、メモ8氏の考へ方には大變な問題があるのであり、私がメモ8氏の發言を問題にしたのは――はつきり言はなかつたからメモ8氏が誤讀したのだが、メモ8氏が「自分語り」をしてゐるからだ。

「残念ながら根本的に誤読です - 電脳如是我聞 - 長尾メモ8 weblog
http://d.hatena.ne.jp/memo8/20091105/p1
自分は、書いてるじゃん、最初の文章のシメに。「メモ8さんの孤独と絶望は深まる一方だ」と。人は「正しさ」や「勝ち負け」の為だけに言葉を吐くわけじゃない。情緒や感動の表出の為に、あるいは、嘆息の呟きの為に、言葉を紡ぐ。文学とは、そういうものだ。

七鍵氏は斯う書いてゐる。

http://www.7key.jp/diary/list/2009_03a_01_04
論理的であるといふことは、「批判に對し防衞力が有るといふ」點で、他者との意思疎通には優れてゐる。特に、他者を自身の意見に近づけるといふ點で優れてゐる。が、假に眞實といふものがあるならば、論理的であるといふことは、その眞實に近づくために必要な要素にはなり得ない。なぜならば、眞實は「解釋」でしかあり得ないのだから。眞實とは、餘りにも、如何してこゝまで孤獨なものなのだらう。

私は、七鍵氏を非難して來たが、だからこそ、同じやうな發想で同じやうな事を言つてゐるメモ8氏も非難せざるを得ない。

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七鍵氏。パンセの正義に關する一節「正義なんて滑稽ものだ。一筋の川で限界づけられるのだから。ピレネー山脈のこちら側では真実でも、向こう側では誤りなのだ。」を引いて。
http://www.7key.jp/diary/list/2009_05a_09_01
確かに滑稽なものなのだ、他人とは共有できないとの點で。だからといつて正義とは、人生において輕んじられるようなものではない。正義は、常に人生の目標として位置づけられねばならない。向う側に誤りと見做されることを懼れて遂行する目標を、正義と呼ぶことはできない。

ところが、ヴォルテールの言葉「彼等はおのれの非を覆うためにのみ思想を用いる。そして彼等の思想を隠すためにのみ言葉を用いる。」を引いて。

http://www.7key.jp/diary/list/2009_03c_28_01
言葉は、心を隱す役割しか擔はない。故に、對話に言葉は必要ない。心と心を通はせるために言葉を用ゐると、生れるのは喜劇か悲劇のどちらかである。

また、ニーチェの「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」と云ふ言葉を引いて。
http://www.7key.jp/diary/list/2009_03a_01_01

それは、一個人の解釋かも知れなければ、ある輯團における解釋かも知れない。どちらにせよ、解釋でしかない曖昧なるものをありがたがる態度、それを我々は改めなければならない。事實は、「結果」を樂しんでおけばよいのである。「論理的」であることも、事實であるといふことに似てゐる、價値がないといふ點で似てゐる。論理的とは、批判に對し防衞力が有るといふことに過ぎない。そのやうな、消極的なある一面でしかないものを有り難がつて何になるのか。事實がどうであれ、結果には敵はない、論理的であることなどそもそも論外だ。

(つづく)