闇黒日記?

にゃもち大いに語る

個人的な餘りに個人的な その二

(承前)

メモ8さん。
http://d.hatena.ne.jp/memo8/20091105/p1
自分は価値相対主義といえば、その傾向は間違いなくあるが、『公共的な・公益性のある「正しさ」を主張する際の「勝ち負け」は「認められない」』などとは、書いてないし、『個人的な「正しく解釋する事」を主張する際の「勝ち負け」は「認める」』とも書いてない。
「勝手にそうなんだろうと、野嵜さんが決め付けているだけなのだ。」とメモ8さんは言ふが、先づ「書いてない」ならば「重視してゐない」のだらうと考へるのが普通(メモ8さんが正しさに關する勝ち負けを積極的に認めてゐるとは考へられない、と云ふ事)。

http://d.hatena.ne.jp/memo8/20091028/p1
真っ当なことを、真っ当に書き過ぎているのかなあ。もっといい加減に。もっと適当に。そうやって、突っ込みどころを増やしていかないと、コメントしたくなるブログにはならないのかもしれない。かと言って、比較的多い誤字脱字をみつければ、やはり丁寧に直してしまうし、わざと間違ったことを書いて、コメントを誘う気にもならない。
なるほど、「正しさへの志向」は「ある」と、さう言ふメモ8氏の反論にも、頷けるところは「ある」。だから私は取敢ず謝罪したのだが……。

あれだけいた議論したがりな連中は、一体どこにいってしまったのかと思うぐらいに、最近は議論したがる連中が少ないし、議論がなされている場も少ない。ウェブは2.0に進化して、益々双方向になった筈なのに、昔からネットにいた自分のような人間には、その機会がどんどん失われ、一方的に文句垂れ流しているだけみたいになってきた。
昔、議論に見えたものは、実は議論でもなんでもなく、それで得られるカタルシスは、言いっ放し型の一方通行でも、充分得られるということなのかも。
此處まで讀むと、普通に「議論したがりの人間は、「相手を罵倒したい、一方的に叩いて、いい気分にな」る「カタルシス」を求めてゐるものだ、とメモ8氏が言つてゐると、讀み手は自然に思ふ。

が、ここにメモ8氏が羂を張つてゐて。
議論の面白さの本質は、異なるテーゼが、ぶつかり合った結果、止揚されることであり、相手を言い負かすことではない(と自分は思う)。だからこそ、勝つことだけが目的になるようなディベート型の議論は、やってて面白くないし、やりたいとも思わない。
と云ふ文章を插み込んでゐる。

なるほど、メモ8氏は、自分だけは「議論らしきものをしたがる人々」とは違ふ「議論をしたい人間」だと、別格に置いてゐるわけだ。

が、私は「闇黒日記」で、メモ8氏が自分を別格に置く特殊の部分での態度を問題にしてゐない。メモ8氏が「議論らしきものをしたがる人々=一方的に言いっぱなしにする人々」を論じた部分だけを採上げたのだ。

http://noz.hp.infoseek.co.jp/diary/20091001.html
「何を問題にする議論」か――そもそも「議論とは何か」を定義しないで、何となく「議論」つぽいものの事をあれこれ言つても仕方がない。この人も、「議論」と「喧嘩」とを全然區別してゐない。罵倒とか相手を叩くとか、さう云ふ現象を、議論の一屬性と見ず、議論の本質と勘違ひして、面白をかしく語つてゐる。

一言言つておくが、私の言つてゐる「議論」「喧嘩」と、メモ8氏の「議論らしきもの」「一方的に言いっぱなしにする事」とは、一致しない。メモ8氏の「議論らしきもの」「一方的に言いっぱなしにする事」は一纏めにして、「正しさを目的とした議論」「勝ち負けを目的とした喧嘩」を一纏めにしたものと、重なる。
――そして、それらを一括りにして、メモ8氏は、「自分の考へる議論の面白さとは無縁のもの」と言つてゐる。

「BとC」=「イとロ」、とメモ8氏は言ひ、Aであるメモ8氏の態度だけが別、と稱してゐるわけだ。

だが、これは、私の大事な「正しさに關する議論」に對する冒涜である。「いや、冒涜する意圖なんかないぞ」とメモ8氏は主張するのだらうけれども、しかし、どうもそれが怪しい。

私が怪しいと睨むのは、メモ8氏が、自分だけを特別扱ひする傾向があるところだ。

http://d.hatena.ne.jp/memo8/20091105/p1
自分は、書いてるじゃん、最初の文章のシメに。「メモ8さんの孤独と絶望は深まる一方だ」と。人は「正しさ」や「勝ち負け」の為だけに言葉を吐くわけじゃない。情緒や感動の表出の為に、あるいは、嘆息の呟きの為に、言葉を紡ぐ。文学とは、そういうものだ。
「メモ8さんの」と云ふ書き方を、メモ8さんが何の疑問もなく使つてゐるところが、私は大變怪しいと睨む理由だ。私が「野嵜さんは書きました」なんて自分の文章で書いたら、とてもをかしな事だ。ところが、メモ8さんは、自分で自分に「さん」を附けるし、それを「をかしい」とも思はない。
「議論らしきもの」「言いっぱなし」を非難しつゝ、自分だけは特別、と述べるメモ8さんだが――しかも、人の發言を捉へて、「誤讀は自由」と極附けてゐるのだ。「自由にして良い=價値として認める」と云ふ事である筈なのに、「誤讀」なる價値判斷を下してゐる。

http://d.hatena.ne.jp/memo8/20091028/p1
これはいい意味もあるのかもしれないけれど、最近はこのブログ、コメント欄で盛り上がることはまずなく。勿論、同意してくれるコメント、応援してくれるコメントの存在はうれしいに決まっているんだが、やはりそうじゃなくて、もう少し絡んできてくれるアホな奴がいると面白くなる。昨日は少しだけ、それ系のコメントがついたのでニヤニヤしてしまった。失礼さ加減も含めて。いきなり「メモ8さんよ」だぜ。うれしくなっちゃう。

この人は、自分を他人より上に置いてゐるのでないか――と言ふより、「それが當り前」と思つてゐるのでないか。

状況證據が揃ひ過ぎてゐるのだ。メモ8さんは自分を「偉い」人間だと思つてゐるな、と私は判斷した。が、そこまでは「闇黒日記」で書かなかつた。状況證據は状況證據にすぎない。だから私は、「何を問題にする議論」かの話で濟ませた。が、少くともメモ8氏が「正しさ」を問題にしてはゐないなとは確信して書いてゐた。メモ8氏は價値相對主義者だ。價値相對主義者なら、自分の價値だけ温存する理論武裝をするのは、一般的だ。もちろん、そこまではつきり「メモ8氏論」は、やつたりしない――積りだつた。
だが、それでもメモ8氏には氣に入らない事を言つてゐるなとピンと來たのだ。メモ8氏の「鋭さ」は賞賛に價する。が、そこで言出したのが「誤讀」なのだから、うじむし氏ではないが、それは私の「確信を深める」事になつただけだつた。

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しかし。
この文章を見て、さうさう「非道い誤讀だ」と嘆かなければならないやうな感想を抱くとは、ちよつとメモ8氏も、自己中心的に過ぎるだらう。
「何を問題にする議論」か――そもそも「議論とは何か」を定義しないで、何となく「議論」つぽいものの事をあれこれ言つても仕方がない。この人も、「議論」と「喧嘩」とを全然區別してゐない。罵倒とか相手を叩くとか、さう云ふ現象を、議論の一屬性と見ず、議論の本質と勘違ひして、面白をかしく語つてゐる。
「自分が面白いとは思えない議論の一例を挙げただけ」なのに、「議論の本質の話をされた」とメモ8氏は嘆いてゐるのだが、私は議論の本質にだけ興味があるのであり、その話をしないでゐるメモ8氏の態度を難じただけだ。メモ8氏の考へる「正しさ」も「異なるテーゼが、ぶつかり合った結果、止揚されること」で得られるものである筈で、そんなのあり得ないと云ふのが私の立場だから、「何となく「議論」つぽいものの事をあれこれ言つても仕方がない。」と感想を言つただけだ。「そもそも「議論とは何か」を定義しないで、」だつて、合つてゐるだらう。「議論の面白さ」を論じてゐるとメモ8氏は頻りに言つてゐる。私の氣に入らない所以であるのだが、「氣に入らないなんて許せない、誤讀だ!」とメモ8氏は叫ぶ。
――私が何處を何う誤讀してゐると云ふのか。

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もちろん、私とメモ8氏との言爭ひは、平行線のまゝ終るだらう。メモ8氏は、自分の發言なのだから自分の解釋だけが正しい、と言張り、私は、他人の發言を自分流に分析するのは正しいと思つてゐるのだから。
精々Kirokuroが「野Qの大失態! またもや誤読を指摘される!」とか大喜びで「ブログ」の記事をまとめる結果になるだけだらう。そして、さう云ふKirokuroを、メモ8氏は「身方だ」と思ふに違ひない。Kirokuroは、ただ「野嵜に勝つ事だけを目的としてゐる」人間なのだが、メモ8氏は、偏見を平氣で語るujimusi氏と仲良しであり、當然の事ながら、「敵の敵」である「身方」のKirokuroとも手を結ぶ。となると、メモ8氏が正しさには何の關心もなく、人にのみ興味を抱くタイプの人間である、と云ふ私の判斷は正しい事が立證されるわけだ。

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この記事はトラックバック送りつける事ができないやうにしてあります。Kirokuroが嫌がらせの文章を「ブログ」に上げて、見せ附ける爲にトラックバックを送つてくるもので。ああ、メモ8さんが「ネットには最早議論は存在しない」と述べてをられますけれども、Kirokuroなんかを見れば判る通り、「あります」よ。ええと、表題の「議論」と、本文における「議論らしきもの」と、メモ8さんが「面白さを感じる議論」と、メモ8さんは區別して語つてをられるのでせうか。