闇黒日記?

にゃもち大いに語る

ネトサヨのネトウヨ批判に卷込まれるの卷

Kirokuroからの嫌がらせを最う三年は受け續けてゐるのだけれども、その一派からの嫌がらせが更にエスカレートしてゐる。

Kirokuroやその仲間達は、ネトサヨと呼ばれる人々なのだが、野嵜の事をネトウヨと思ひ込んで、ネトウヨの「特徴」を列擧する事で、野嵜の「特徴」を巧く言ひ表し、野嵜が物を言ふ權利を持たない人間以下の存在である事を證明した積りになつてゐる。

人を貶めるのには、人が崇めるものを貶めるか、人が實際には崇めてゐるものを、恰も貶めてゐるかのやうに、正反對に言つて、宣傳するのが、「うまいやり方」だと、彼等は「知つてゐる」。野嵜が福田恆存松原正氏を尊敬してゐるから、野嵜を敵視するネトサヨの諸氏は、「松原信者」と云ふ事を強調しては野嵜の愚かさを宣傳して松原先生に迷惑をかけようとしたり、或は、福田恆存を冒涜してゐるかのやうに宣傳して、野嵜が福田氏への尊敬の心を表明できないやうに妨碍したり、さう云ふ嫌がらせをやつて、野嵜を潰さうとしてゐる。

だから私はこの「闇黒日記2.0」に、斯う云ふ言葉を掲げてゐる。

政治的な餘りに政治的なKirokuroから、價値觀が異ると云ふだけで攻撃を受けてゐる人間の「ブログ」

ネトサヨの人逹は――しかしなぜ、自分逹の人間としての下劣さを意識する事が出來ず、他人を一方的に罵り、嘲つて、喜んでゐられるのだらうか。ちよつと何うかしてゐると思ふが、さう云ふ人間だからこそ、破壞活動を面白がり、世の中の價値を破壞して嬉しがる、さう云ふ生き方を選ぶ事が出來るのだらう。

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http://blog.ap.teacup.com/redcliff-kikyo/57.html
ネット右翼が保守すべきものは『右派政権』で、守るべき伝統とは『明治維新』で、誇るべき神話が『ド●クエなどの北欧神話』で、道徳教育と言えば『キリスト教的価値観』だからね。
私はそもそも政治主義を排するのであり、北歐神話なんて餘所の國のものは誇る積りなんて毛頭ないし、徳目を教へ込む教育と人間の本質を知る道徳教育とを區別するのだから、このネトサヨ氏の色眼鏡には苦笑するしかないが――明治維新を否定しようにも、明治以來、日本人が西歐化・近代化の方針を、今に至るまでずつととつてゐる事は、論ずるまでもなく事實ではないか。守るべきも何も、事實として繼續してゐるのだから、より良い形でそれを實現して行かうとしなければならないのは、當り前の話だ。

「国体や道徳意識を破壊した」のは「市場原理主義」なんてものではなくて、そもそも日本の國體なるものも道徳に關する意識も脆弱だつたから、近代化の中で保たなくなつたと云ふだけの話だ。
また、明治政權が軍事政權であつたか何うかは大變疑問があるが、假にさうであつたとしても、福田恆存は戰前の日本において最も合理的だつたのは軍隊だと指摘してゐる。

あの時は『西欧に追いつき追い越さねば植民地にされる』と言うご時世であって、そのために伝統破壊をしてまで西欧化を行ったのが大正デモクラシー。これによって政治家の質的劣化や堕落を産み出して、これをきっかけに軍の暴走を招来させた。

こう言う事から大東亜戦争にあたって『あの時は食うか食われるかの戦国時代だった』『日本以外のアジア諸国は列強の植民地であり、それを日本が解放した』とまでにホルホルと肯定はするが、『いくら西欧に追いつき追い越せとしても本家にかなわない』と言う教訓は忘れ去った。

これが連中の言う自分自身の國に誇りを持とうという歴史教育
私は「いくら西欧に追いつき追い越せとしても本家にかなわない」と何時も言つてゐるし、逆に「自分自身の國に誇りを持とう」とは言つてゐない。この邊、事實を見ないで理論に從つて事實を歪曲する、惡いイデオロギストの癖が出てゐる。
實際、私のサイトの記事を讀んで貰へば判る事だが、大東亞戰爭における日本の大義なるものが甚だ脆弱であつた事を、私は指摘してゐるのだ。

大東亜戦争当時には教育勅語の精神が歪められた事実も、合理的な判断より感情論が優先された質的劣化や戦略の稚拙なども見ようともせず、あの戦争はアジア解放の聖戦だ!それを見つめて誇りを持ちましょう!!などと言われてもねぇ。そのおかげで左派に今まで虐げられたから窮乏生活に耐えましょうとまでに戦時下と同じ状態になったからね。
私に言はせれば(松原先生が指摘された事なのだが)そもそもの教育勅語自體が、日本人の道徳觀の脆弱さ・頼りなさを端的に示すものだつた。あそこに書いてある徳目は、忠だの孝だのと云ふの許りがネトサヨ諸氏には目につくのだらうが、夫婦相和しなんて、それこそ無意味だらう。夫婦喧嘩しない夫婦はゐない。夫と妻でも別個の人間なのだから、考へ方が異るのは當り前、それでも互ひの相違を乘越えてやつて行かねばならないと云ふのが本當の道徳の考へ方だが、それが「相和し」の一言で簡單に濟まされてしまふ。
さうした安直な發想・簡單な割切りは、日本人の反省しなければならない最大の問題點なのだが、ネトサヨ氏は、教育勅語の文章を利用して敵のネトウヨを叩く事にしか興味がないから、「教育勅語の精神」なんて簡單に言つてしまつてゐる。ネトウヨ氏が持つてゐると云ふ簡單な割切りも、ネトサヨ氏の割切りも、同じやうに、日本人の一番ダメなところなのであつて、それこそ反省せねばならないのだが。

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しかし、ネトサヨ氏について、一つだけ確實に言へる事がある。彼等は、嘗ての左翼野黨と同樣、右翼・保守派を罵倒する事、揚げ足を取る事は出來るが、それは所詮、陰濕な「足を引張る」行爲、ネガティヴな批判でしかない。彼等は、積極的に自分逹の價値を主張する事が出來ない。彼等はただ、過去のものを侮辱して喜び、保守派を嘲つて快を貪り、價値觀を破壞して樂しむが、それで彼等は我々が據るべきよりよい價値も何も提示する事が無い。ひたすら虚無的なのだ。彼等は、他人の人格を云々するが、自分の人格は最低である。彼等は、野嵜の人格を卑劣だの何だのと罵倒するが、彼等自身の人間性は最低である。
自分の事は棚に上げ。野嵜がそれをやつてゐると彼等は頻りに言ふ。が、彼等は彼等自身がやつてゐるそれを絶對に反省しない。

それがネトサヨなのである。