闇黒日記?

にゃもち大いに語る

歴史的假名遣なるもの

我々は權威・權力による全ての押附け・強制を排除して、自由に自分の態度を決めなければならない――とするならば、「現代仮名遣」なる權力による・權威的な強制は當然の事ながら排除しなければならない、と云ふ事になります。ところが、自由を主張する人々は、積極的に「現代仮名遣」なる權威に從はうとします。
私にはそれが解せない。

歴史的假名遣が、高壓的な權威であつた事も、權力者によつて強制された事もありません。なぜなら、歴史的假名遣は、單に、發音と表記とには屡々ずれが生ずる事實を、ただただ「認める」だけのものだからです。
我々が、發音が變化して表記と乖離を生じた語を書く時、或種の書き方をします――その書き方の意識が、規範意識となると云ふ訣ですが、その意識された書き方が法則化の傾向を帶びた時、事實で以て否定される事があります。その否定をやつたのが、先づは定家であり、後には契沖でありました。

定家にしても契沖にしても、既成の規範的な意識に對して、事實で以て反論したのであり、そこに「押附け」の意識はありません。ただ、「批判」の意識は「あつた」と言つて良いでせう。
歴史的假名遣として明治政府が採用した「規範」ですが、實は、「現代仮名遣」原理主義者の人々が批判するやうに、固定的な内容は無く、強制性はありません。ただ何となく法則と思はれてゐた或種の書き方に對して、具體的な例を擧げて反論し、誤と指摘する、批判的な態度だけがあつたのです。
さうしたえんえんと續く誤の訂正の過程が、歴史的假名遣の歴史であつたわけです。

さうした「固定的でない・規範性のない歴史的假名遣」と云ふ日本語の事實に不滿を持つた人々が、「固定的で權威的な規範としての表記の規則」を何とかして構築し、國民に押附けようとしたのが、表音主義であります。表音主義の理論は、全て、一つの原理に基いて、統一的な書き方を實現できるやうに、自然な日本語を歪曲し、それを力づくで押附ける事を目的とした理論でした。
「現代かなづかい」は、さうした表音主義を支持する人々が、現實の表記である歴史的假名遣に妥協して、取敢ず「受容れられさう」な規範を構築し、自分逹の信ずる統一的な書き方の規則を部分的にでも實現しようとしたものです。ところが、その結果として、全體として、「現代かなづかい」は、命令的で強制的な、不合理な内容の規範となつてしまひました。
即ち、語の自律性を尊重する從來の態度が、語を人間の支配下に置く=語を使ふ人間を權力者の支配下に置く強制的な「現代」の態度に、變化してしまつたわけです。

繰返しますが、明治政府の採用した歴史的假名遣と云ふものは、決定的で高壓的な、或は原理的・理論的なものではありません。だから、「明治政府は歴史的假名遣を規範として國民に押附けた」などと言ふ事は出來ません。それは事實に反します。ただ、「さう云ふ事にする」と非難するのに便利だから、「現代仮名遣」を理論的に正當化しようとする人々が原理主義的に歴史的假名遣の性質を極附けてゐるだけです。
しかし、新しく創作した「規範」を、少數の・一部の人々が、國家權力の力を用ゐて、高壓的に國民に押附けたのが「現代仮名遣」であつた事は、事實です。
人によつては、さうした押附けとしての規範である事を理由に「現代仮名遣」を支持すると言ふ事がありますが、私にはさう云ふ權威主義或は政治主義の態度は受容れられません。