闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「ポパーの霊験」……


ていうか、ポパーに何の霊験も感じない人間にポパーを引用して批判したってしょうがないと思うのだが。

Kirokuro氏は、また、ポパーと云ふ「人を信ずる・信じない」を言つてゐる。

なぜ人は「信ずる・信じない」やうになるのか――の考察が、Kirokuro氏の文章では、いつもすつぽり拔けてゐる。

ポパーの主張の「どこが駄目なのか」を、Kirokuro氏は絶對に指摘しない。

ポパーの「霊験」なるものは存在しない。ポパーの論理は存在する。そして私は、ポパーを讀めと言ひ、ポパーの論理を學べ、と言つてゐるのであり、「ポパーを讀まないで、その霊験を信ぜよ」と言つてゐない。ところが、Kirokuro氏には、こんな事すらも、解らない。
ポパーの言ふ通りで、「眞理は存在する」と云ふ立場の人間と、Kirokuro氏のやうな「眞理等存在しない」と云ふ立場の相對主義者とが存在するわけだが、相對主義の論理をポパーは批判してゐるのであり、その批判に有效な反論を出來ないのなら、相對主義の誤である事は確定する。Kirokuro氏には、是非とも有效な反論をしていただきたいものだと期待したのだが……。

……私の豫言はよく當るのである。
もちろん、Kirokuroは、斯う言はれても、絶對にポパーを讀まない。

と言ふか、「讀め」=「信じろ」と言つてゐるのだと、Kirokuro氏らは思つてゐるのだらうか。讀んでも信じないで反論しても良いとは思はないのだらうか。それにしては私の文章に散々逆らつてゐるやうな氣がするのだが。或は、Kirokuro氏は、論理的な反論はしなくてよい、感情的な罵倒だけをすべきである、と云ふ、異常な「アンチ理論」の信奉者なのだらうか。さもありなん。

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反論出來なければ當座、從ふしかないのだが、それはポパーと云ふ「人を信ずる」のではなく、ポパーの「論理に從ふ」事にほかならない。Kirokuro氏は、「人を信ずる主觀的な態度」に陷りたくないがゆゑに必死になつて「讀む」事を拒否するのだが、人の言つてゐる「論理に從ふ客觀的な態度」と云ふものがあるし、その「論理」は「人」から獨立した内容を持つ。
「人」を問題にする事は、粘着と云ふ態度を生むだけで、不毛だ。Kirokuro氏は、その不毛と云ふ事を故意に無視してゐる。自分を肯定する事だけを考へてゐるからだ。

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ポパーの『知的自伝』の解説(村上陽一郎氏)に據れば、「ポパーエヴァンジェリスト」を熱狂的に非難してゐる人がゐるさうだ。
Kirokuro氏がしてゐるほど幼稚な非難ではないと思ふが……。