闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「粘着アンチ」のスパム的トラックバックは「デマを流す」事と同じ

「ブログ」をやつてゐると、宣傳目的で無差別にトラックバックを打込んでくる業者がゐて、矢張り「スパム」の一種と云ふ事で嫌はれてゐる。斯う云ふのは、トラバされた「ブロガー」は削除するしかないし、閲覽者も無視が一番と云ふ事になつてゐる。

では、「無差別」ではないにしても、記事の内容を無視して、自分の主義・主張を、或は「ブロガー」に對する惡口を讀ませる爲にトラバする手合は何うだらうか? これも一種の「スパム」と言つてよろしいのでないか?

手段を選ばず、自分の意見を押附けようとする「粘着アンチ」の「スパム」――「商賣の爲のスパム」と違つて「正義の爲のスパム」であると云ふ訣だが……。

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しかし、本當に役に立つ記事を書いたのなら、さうした宣傳は必要だらうか。

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一般論だが、「粘着アンチ」の人々の發言は、第三者の目には、例外なしに、詰らないものだ。

虹裏でも2ちゃんねるでも、「粘着アンチ」は嫌はれる。
突然、「誰某がこんな發言をしたが前の發言と矛盾してゐる! 誰某は責任をとれ!」と云ふスレを立てて、喚き始める。「そんな矛盾何うだつて良い」と批判が書込まれる。ところが、「何うだつて良いわけがないだろ。俺は誰某が氣に食はない」とその人は激しく叫ぶ。
空氣が段々をかしくなつて來る。「ああ、こいつまた何時もの變な子だ」――

因縁を附けて脅してゐるだけなのに、些細な揚げ足取りでしかないのに、「粘着アンチ」は一生懸命だ。さめた周囲の人間に、「粘着アンチ」の發言はナンセンスなものにしか見えない。
「粘着アンチ」の人々は、激しく自己主張し、赤の他人に力づくで自分の文章を讀ませ、自分の意見を押附けようとする。そして、それを普通の人間が「をかしい」と指摘しても、自分の行爲は「正義である」と主張して、決して引込めない。
それは、その「アンチ」にとつて、一錢の得にもならない事だ。しかし彼等は、實に熱心に、「感情論の押附け」に勤しむ。幾らかでも金錢的なメリットが發生する「商賣としてのスパム」の方が、まだしも健全だとすら思はれるくらゐだ。
いづれにしても、そんなものにまともな人間は興味を示さない。

彼等は屡々、誰か氣に食はない人物を見出し、その發言に注目してゐて、事ある毎にその「致命的な矛盾」を指摘する。だから彼等は「粘着アンチ」と呼ばれる。しかし、その「矛盾の指摘」が一般性を缺いてゐる事は極めて多いのだ。
「粘着アンチ」は、さうした異常な指摘を繰返す。それゆゑ「粘着アンチ」は周圍から「變な子」扱ひされる事になる。ところが、「粘着アンチ」は、自分が「變な子」扱ひされると、さう云ふ扱ひをするのは自分が攻撃してゐる對象のシンパ、或は「信者」だと極附け、「信者だからアンチ」に反感を持つのである」と云ふ、誰にも論破出來ない無茶な論理を振りかざし、「信者」に對して激しく嘲笑を浴びせる。

ところが、その「粘着アンチ」が指摘する「注目すべき重大な矛盾」は、ほぼ全てが、ただその「粘着アンチ」一人がさう思つてゐるに過ぎないものなのだ。普通の人間は氣にしない事を、「粘着アンチ」は神經質にも氣にして苛立つてゐる。
多くの人がその「粘着アンチ」の指摘を「中傷だ」「嫌がらせだ」と非難する。指摘するやうなものでもない事を「矛盾」呼ばはりして大袈裟に騷ぎ立て、攻撃してゐるのなら、中傷行爲・名譽毀損だからだ。
ところが「粘着アンチ」は、自分の正義に確信を抱いてゐるから、自分の行爲の下らない事・惡質である事を絶對に認めず、意地でも「俺樣の指摘は重大なのだ」と言張る。

類は友を呼ぶ。をかしな人間の周りにはをかしな人間が集る。虹裏でも、糞コテは糞コテ同士でつるんでゐる。さうしたをかしな連中が集つて――しかし、ほかの普通の「」は遠卷きにして見てゐる許り、誰一人、變な子・糞コテの言ふ事に同意する人間はゐない。

――それが當り前なのだ。

をかしな意見が普通の人間に少しも注目されないのは普通の事だ。
ところがそれが變な子には我慢ならない。
だから彼等は喚き立てる。「ブログ」を作つて、もつともらしい「論説」を並べる。そして、氣に入らない人間に對する罵倒を書連ねる。ところが誰にも氣にされない。氣に入らない人間にも無視される。
だから彼等は宣傳する。宣傳して、注目を集めようとする。相手の目に入るやうにしようとする。
ところが、何としても、變な子の側につく人間は出てこない。變な子が激しく喚いて嘲つても、嘲られた人の方が依然として支持されてゐる。
當り前だ。變な子・「粘着アンチ」の、一般性を缺いた意見――と言ふより、徹底的に客觀性を缺いた感情論に、賛成する人間は、出てくるわけがない。

と言ふより、惡意に基づいた意見なんて、不快感を催すだけだ。

ところがそれが「粘着アンチ」の變な子にはわからない。なぜ自分の意見が世間に通らないのか、不思議に思つてゐる。そして、ますます居丈高になつて、「敵」と思ひ定めた人間に突貫する。
相手の都合お構ひなし――と言ふより、相手にとつて都合が惡いのなら、何でもいいのだ。相手が不愉快になればなる程、自分は「良い批判」をしたのだ――さう勝手に思ひ込んで、勝手に好い氣になる。けれども、誰が何う見ても、さう云ふ姿は醜い。

「粘着アンチ」は、「自分の意見は絶對に正しい」と主張して、空氣を讀まずに他人に押附けようとする。が、「空氣を讀まない」のは、讀んでゐたら自分の意見を言へなくなるからだ。それほどまでに「粘着アンチ」の意見とやらは、一般性を缺き、内容が貧しい。
そもそも、穩健に意見を述べても、まともな人間には決して注目されないほど、彼等の意見はろくでもないものだ。
だからこそ、「粘着アンチ」は、宣傳する。「敵」に突撃する。少くとも「敵」の人にだけは、自分の方を見てほしい……何ともいぢましい話ではある。
が、それは「デマを流す」も同然の事だ。それはさうだらう。一般性のない感情論――しかも惡意に基いてゐる――そんなものを「信じよ」と言つて押附けてゐるのだ。もちろん、そんなもの、信じられるべき正しい意見であるわけがない。が、この手の知的レヴェルの低い人々は、さう云ふ事が解らない。
感情論で物を言ふのは惡い事だ。けれども、その手の人々は、自分が感情論を言つてゐると云ふ自覺を持てない。「矛盾」を指摘し、いつぱしの理窟を言つてゐるかのやうな氣になつて、好い氣になつてゐる。Kirokuro氏がまさにそれだ。
けれども、偏見に陷つた人間が如何に論理的な風を裝はうとも、惡意剥き出しである事は覆ひ匿しやうがない。そして、普通の人は、文章に於る惡意の有無を實に敏感に察知するのだ。
惡意に滿ち滿ちた文章を、まともな人は端から相手にしない。惡意の矛先が、既に一般に憎まれてゐる人物である場合は兔も角も、「粘着アンチ」が突然「こいつは憎むべきだ」と言出したやうな時――そんなものを簡單に信じ込む人間が、續出するやうな世の中だつたら、そんなところは危なくてしやうがないではないか。

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我々は「××を警戒せよ」のやうなデマを流す人々を警戒せねばならない。關東大震災の時には、斯うした一種のアンチの人々の流した風説によつて、多くの人が非道い目に遭つた。