闇黒日記?

にゃもち大いに語る

『小林一郎精講 論語』より

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又弟子も孔子に心服して『斯んな勝れた人物はない』といふことを信じて居たのであります。子貢といふ弟子などは隨分良い弟子でありますが、此の子貢といふ弟子は、自分の師の孔子を、人間あつて以來初めての人であると、斯ういふやうなこと迄申して居ります。
一體人間は誰でもさうでありますが、傍に居ると其の人が偉大であるといふことは見えない。如何なる英雄豪傑でも、始終傍に居ると平凡に見える。昔の人だといふと、大層偉く見える。又外國の人であると、その名を聞いただけでも、大層偉く思はれる。毎日同じ所に暮して居ると詰らない人のやうに見えるのが、先づ普通のことである。それが人情の常であるのに、始終一緒に暮して居つた子貢が、自分の先生は人類初まつて以來類のない偉い人であるといふことを、心から言つて居るのでありますから、この一事を以て見ましても孔子その人が、如何に勝れた人物であつたか、又その弟子にどれ程尊敬されて居た人であつたかといふことが解るのであります。
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小林一郎精講 論語』上卷は昭和十三年一月十日に發行された。引用はその「序説」の一節で、昭和二十三年六月十日の再版に據つた。
戰後、惡しき平等主義が一般化し、「目上の人を尊敬しない」發言をするのが「公正」な「言論」であるとの思想が廣まつて、自稱保守主義者ですらさうした戰後の風調から脱け出せないでゐるが、我々の御先祖樣はかつて目上の人を敬ふ事を立派な價値と看做し、他人が師を敬ふ樣子を見て感心したのであつた。

最早この種の「尊敬」は、誰からも評價されない事となり、過去の價値觀は現在に於いて死んでゐる訣だが、斯うした状況は惡化の一途を辿つてゐる。
例へば虹裏imgで、「ハルヒ厨」「らき☆すた厨」と罵つて涼宮ハルヒらき☆すたといつた作品のファンを嫌つて見せる粘着が横行してゐるが、尊敬に至らない、ただの「好き」と云ふ感情すら、罵るべき對象と化してしまつてゐる。勿論、2ちゃんねらーの嫌らしいやり口として、imgではこれらアンチに對する惡感情が再び出現してゐるのだが、いづれにせよ、アンチの言掛りは、有效な戰術として、ファンのみならず作品のハルヒらきすたに對する惡感情の定着と云ふ結果に繋がつてしまつてゐる。
斯うした「惡感情を定着させる爲の言ひがかり」は、例へば最近自民政權に對して行はれた民主党の攻撃にも見られる事だが、何時も不毛なやりとりと、無益な「構造」の改革しか遺さない。小沢一郎は、この十數年間、日本の政黨政治を滅茶苦茶に引掻き囘し、ただひたすら黨を立上げたり潰したりし續けたが、現實に何の功績も殘してゐない。かうした言掛りと揚げ足取りで野党が政權与党の足を引張ると云ふ「政治」のやり方は、只の權力鬪爭でしかないのだが、當り前の事として現代の日本人には――と言ふより、明治以來の日本ではこの種の權力鬪爭以外に政治は存在しない。日本人は、何を議論するかではなく、何う議論するかにのみ關心を抱く。何時でも「システム」を何うするかに拘り、その「システム」で何を運用するかには興味を持たない。
「システム」を論ひ、本質を見ないやり方をし度がる日本人の傾向は、戰後五十年を經て相變らず續いてゐる。そして、これが先の「價値觀」の變化によつて、より強固に「正しい」と信じられるやうになつてゐるやうに思はれる。あきれた話だが、舊弊的な發想が、現代的な觀念によつて、強化されてゐるのである。保守主義ですら、惡しき戰後民主主義の基本理念を「活用」して、自己の思想を強化しつゝあるのが實状である。「敬意」よりも「公正」をより重視する――勿論、他人の敬意を貶める爲に、道具として「公正」と云ふ言葉を利用してゐるのであるが、これは保守主義にも民主主義にも、何の寄與もしない。ところが、何にも何の寄與もしない下らない事を、我々日本人は屡々好んで行ふのである。その際、誰それの「責任」を問ふ、と云ふ、實に御立派な大義名分が、常に用ゐられる。意味のない事甚だしいのだが、責任と言へば大變意義のある事になると、我々日本人はしよつちゆう勘違ひしてゐる。

たかがシステムに拘る傾向は、例へばたかがメディアに拘る傾向と一致し、「言つてゐる事は正しいが、お前の言ひ方が氣に入らない」式の「反感」なる感情に基づいた言掛りを正當化する傾向を生んでゐる。感情論は所詮感情論に過ぎない筈であるが、その感情論が有效な結果を生んでゐるからと言つて正當化される。
かうなれば最早論理をかなぐり捨ててひたすら裏工作でもし捲ればよからうが、それが許される社會を認めるならば、我々は法によつて人權を守られない、弱肉強食を原理とする力社會を要請しなければならないだらう。要は、秩序を不要とする傾向が認められるならば、實力のみで生殘らねばならない苛烈で野蠻な競爭社會を要請する事になると云ふ話だが、しかし、それでは困るのである。保守主義者の間にも、なぜか秩序を憎み、敬意を否定する傾向が瀰漫してゐるが、反省を促したい。

もつとも、何事であれ「自覺出來ない」状況が一般化してゐる今の日本で、「反省」があり得るか、と云ふ問題がある。他人を尊敬出來なければ、自分で自分を尊敬するナルシシズムが當り前になつてしまふからだ。「アンチ」の傾向を持つ人に、この種のナルシシズムは一般的であるが、何うも今の日本には、この種の人間が増え過ぎてゐるやうに思はれる。