闇黒日記?

にゃもち大いに語る

頭の良い粘着アンチ

「人の事を嘲笑つて愉しむのは良い事だ」と思ひ込んでゐる頭の惡い人間は少くない。けれども、嘲笑ふ理由を「正義」に結び附ければ何をやつても許される、と思ひ込み、毎度毎度出たら目な論理を故事つける頭の良い人間も矢鱈と多い。

「個人攻撃は惡い」――この事が案外多くの人に理解されてゐない。だから、相手が野嵜でも首相でも「惡い人間であると云ふ事」に出來てしまへば、「幾らでも罵聲を浴びせてよい」事になるし、「俺今いいこと言つた!」と嬉しがつてゐられる事になる。
しかし、相手が誰だらうと、單なる個人攻撃は行けない。人身攻撃が許されない事は論ずるまでもない。
では、「間違つた事を言つてゐる人」がゐたら何うすれば良いのか。「間違つた事」を「間違つた事」だと明かにすれば良い=批判をすれば良い。これはあまりにも明かな事であるのだが、明かに過ぎてみんな忘れてゐるらしい。

現在の日本では案外「批判」と云ふ事が行なはれない。Kirokuro的な人身攻撃、誹謗・中傷が大つぴらに行なはれてゐる。さう云ふ事をする人々は、それを「有益」だとすら思ひ込んでゐるらしい。しかし、日本でもしつかりした批判が確立されねばならない――
ところが、今の日本で意地になつて「個人攻撃」を守らうとする人が依然として存在する。彼等は――Kirokuro氏なんかがさうなのだが――正當な批判が確立されると個人攻撃をして樂しめなくなるのが堪らなく嫌なのである。陋劣な精神の所有者である。さうした「陋劣な精神」を持つのが人間だ、と彼等は言ふのだが、陋劣さを隱す事も人間、必要である。少くとも、現代と云ふ時代には、陋劣さを賣りにしていいのは、商賣が目的のスキャンダル雜誌くらゐなものだらう。毎度タダで「言説」をばらまいてゐるネット論客のKirokuro氏なんかが言つていいものではない。

氣に入らない事を言つてゐる人間に粘着し、嫌がらせをして、潰してやれ、と云ふ考へ方をする人が、正しい批判をしたためしはない――と言ふ事は出來ない。Kirokuroの「言説」でも、ちやんとした批判に「なつてゐる」事はある。もちろん、さう云ふ正しい批判をしようとは、彼等は少しも思つてゐない。たまたま「批判」に「なつてしまつてゐる」だけなのである。意圖が問題である。
粘着アンチは惡意を動機としてゐる。同時に、自らの惡意を、尤もらしい「理窟」に置換へる。よくよく讀めば、彼等の「言説」は理窟になつてゐない事がわかる。しかし彼等は自分の惡意を隱蔽し、理窟に見えるやうに非難の文言を整へる。それが本能的に出來るのが粘着アンチである。一方彼等は、ターゲットのしてゐる事を全て惡意に基く行爲と極附ける。自分の心情を相手に投影して、自分の影を他人に見てゐるのである。Kirokuroにしてみれば、野嵜のしてゐる事は全て惡意である。Kirokuro氏が野嵜を「傲慢だ」と罵りながら、自分のブログではあたかも有名人であるかのやうに振舞ひ、匿名なのに嬉々として「讀者」に近況報告してゐたのを覺えてゐる。