闇黒日記?

にゃもち大いに語る

過去を切り捨てる後ろめたさ

今の「神社神道」が何んな發言をしてゐるか、知らないで神道の事を論じたり――剩へ「國家神道」が何うの斯うのと惡口を言つたりしてゐる人が多過ぎる。
「國家神道が何かをやつた」と云ふ事實はない。そもそも「國家神道」なるものは存在しない。靖國神社やら何やらの神社はあつた。しかし「國家神道」なる制度は存在しない。戰後の人間が戰前と云ふ時代を解釋して名附けたのだ。
實際のところ、戰前は神道人も國家からの樣々な掣肘に遭つて相當苦勞してゐた。當時は「國家神道」だつたから神道人はいい思ひをしてゐたに決つてゐると想像するのは觀念的である。「國家神道」が能動的にそれ以前の神道を歪めたと言ふのは行き過ぎた想像であり最早妄想と呼ぶべきだ。

今の神社神道は、明治以來の「國家神道」が神道に與へた「惡影響」を承知で、それでもそれは近代以降の歴史的事實だとして――斯う言ふと誤解を生むだらうが――「負の遺産」も含めて、そつくりそのまゝ引繼がうと云ふ意志を持つてゐる。それが歴史に對して責任をとる、と云ふ事だからだ。

今の人は、近代と云ふものが餘りにも當り前のやうに思へてしまつてゐるから、江戸末期から明治、或はそれ以降の「近代の來襲」がどれほど日本人にとつて衝撃であつたかを全く意識できない。それは、「衝撃的であつた近代の到來」を「過去の歴史」として、敗戰後、切捨ててしまつたから。
現代に生きる日本人は、明治維新以來、苦勞して歐米文化・近代文明を受容れて來たのが我々と同じ日本人だと云ふ事を忘れてゐる。文明近代・歐米文化に適應する爲に、明治時代の先人が打出した樣々な政策も、自分逹とは無縁のものだと思つてゐる。戰後、明治以來の日本の歴史は自分逹とは關係ないと切捨てたからだ。

大日本帝國憲法も歴史的假名遣も「明治政府が不法に制定したものだ」――「だから切捨てていい」と、多くの日本人が信じてゐる。そして、民衆がゼロから「日本国憲法」や「現代仮名遣い」を作り上げた、と信じてしまつてゐる。全て戰後の教育が齎した勘違ひである。
近代に適應する爲に先人が頑張つて作つた大日本帝國憲法や歴史的假名遣を、たかが敗戰と云ふだけの理由で切捨てたのが、日本人の淺はかなところだ。
今の日本人は、自分逹にとつて當り前だと云ふだけの理由で今の憲法や表記を「正しい」と言張る。勿論、過去のものを切捨てるのは淺はかな事で、だから現代の日本人は後ろめたさを感じてゐる。だから、過去の切捨てを正當化する爲に樣々な理窟を言ふ日本人は、却つて居丈高な態度をとらずにゐられないわけだ。

歴史的假名遣の文章を見るたびにアレルギー症状を起こす多くの人は、自分が歴史的假名遣を切捨てた後ろめたさがあるから、逆に力強く歴史的假名遣を「拒絶」して見せる。後ろめたさを匿す爲に強がつてゐるだけである。
歴史的假名遣を、明治政府の創作と極附け、それ以前の表記と斷絶してゐる、と言張る人は、「さう云ふ事」にする事で自分が歴史的假名遣と斷絶した「現代仮名遣い」を使ふ後ろめたさを感じないようにしようとしてゐる。何れにしても「現代仮名遣い」が過去の日本語の表記と斷絶してゐる事實は變らない。
歴史的假名遣がそれ以前の表記と斷絶してゐる事を「立證」したところで、「現代仮名遣」がそれ以前の表記に繋がるわけもなく、「現代仮名遣」が不當な表記である事實は動かない。歴史的假名遣を攻撃し、その「不當性」を幾ら言立てても、「現代仮名遣」は正當化されない。空しい行爲である。

私は「歴史的仮名遣は絶對に正しい」等と言つてゐない。私は「現代仮名遣」が間違つてゐると指摘してゐるだけだ。それに對して「歴史的假名遣は本當に正しいのか?」等と疑問を呈する人が驚くほど澤山ゐる。けれどもそれは何の批判にもならない。批判の仕方が解らない人は頭が惡い。
「現代仮名遣」はただ「現在使はれてゐる」と云ふだけのものでしかない。それは事實であるが、事實は當爲と別の物だ。「現在使われているから現在使われなければならないのである」と云ふ理窟は成立たない。ところが「現代仮名遣」を正當化しようとする人はその成立たない理窟を當り前のやうに言ふ。
「現代仮名遣い」が現在使はれてゐるのは、それだけの理由があるのである――なるほど「それはその通り」だ。けれども、その理由が正當なものであるかどうかは、疑念を以て檢討すべきだらう。「面倒だから嫌だ」――成程、ならば政治の問題にも一々文句を言ふのは止めたら宜しからう。