闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「愛国」について

右翼は左翼を「反日」と言つて罵つてゐるけれども、左翼は「右翼こそ反日」だと思つてゐたりする。どつちも「日本は素晴らしい國」と本氣で信じてゐて、「自分の信じ方こそが正しい」と言つて相手に押附けようとしてゐる。俺にしてみれば、日本なんてそんなに素晴らしい國ではない。

右翼「日本は素晴らしい國である」
左翼「日本は素晴らしい國になる爲に斯うしなければならない」
俺「別に素晴らしくなくても自分の國の事は幾らでも好きでいいだろ」

右翼「日本は素晴らしい國である」
左翼「日本は素晴らしい平和國家である」
俺「何でそんなに自分の國を褒めようとするんだ」

――「素晴らしい國だから、素晴らしくあらねばならない」みたいな發想は、寧ろ危險である。「素晴らしくないなら・駄目なら、さつさと潰せ・無くせ・殺せ」みたいな發想に即座に繋がる。

みんな「優れたもの」と「自分が好きなもの」とをちやんと區別してゐるだらうか。
「優れてゐる→好き」ならいいが、「好き→優れてゐる」では困る、と云ふのは、或意味常識だ。しかし、「優れてゐる→好き」の人を「好き→優れてゐる」と「思っているんだろ」と極附けて罵り、嘲る「信者を批判するアンチ」の人もゐて、これがまたたちが惡い。

日本人は一般に人の行動とその動機との關聯を的確に表現し得ない。斯う言ふと多くの人が反論するだらう。
日本人の九割がたが神社に御參りした事がある筈だ。ところがアンケートで日本人の殆どが「私は神道の信者ではない」と答へる。
神道とは何か」と外國人に聞かれた日本人は、きちんと説明出來るだらうか。辭書の定義を示しても意味はない。「神社に參拜したのに神道を信じてゐないとは何う云ふ事か」と聞かれて、相手の納得するやうな答を示せる日本人は何人ゐるだらう。
キリスト教イスラム等の「宗教を信ずる」のと違つた仕方で日本人は神道に接してゐる。神道を「宗教」だと言ふ人は、議論の時、意識して、殊更にその事を強調してゐるだけである、と云ふ事が非常に多い。
「神社に御參りする」のを「宗教の行爲」でないと認識し、「自分は神道の信者でない」と言ふ日本人が、「靖國神社に參拜する」のを「宗教的な行爲」だと言ふ時、「一般的な行爲」としての參拜と、「國家のレヴェルでの行爲」としての靖國參拜とを區別してゐる事になる。
正月に初詣に行くやうな一般人の行爲と、國家神道とを、ウェブで議論する人は大抵區別してゐる――勿論區別可能である。が、「個人的な行爲」としての初詣と「政治的・國家的な行爲」としての「國家神道」とを區別出來るならば、個人の物である道徳と國家的なものである政治とを區別して何が惡いのだらう。
私は、「政治(國家・「公」)と文學(道徳・宗教・個人・「私」)」との區別を強調するけれども、一方で日本人が一般にそれらを區別しない習慣がある事を知つてゐるから、初詣に行くやうな個人レヴェルの神道と國家神道とを區別しない態度を日本人がとるのは自然だ、と考へる。
日本の社會をありのまゝに見るなら、「公私」は常に混同され、神道と國家神道とは「一致する」ものだと言はねばならない。一方、觀念論・べき論をするなら、我々は「政治に屬する領域」と「個人に屬する領域」とを嚴密に區別して考へる習慣を持たねばならない。

安蘇谷正彦『神道とはなにか』(ぺりかん社)をながめながら……。

http://twilog.org/nozakitakehide/date-100825/