闇黒日記?

にゃもち大いに語る

正しさの押附けについて

日本には「言葉は変化するものだ」とか言つて間違ひを容認する安易さ・甘さがある。そして「若い人に媚びて自分が好かれようとする年寄りの態度」が屡見られる。
「正しい言葉」とか「正しい假名遣」とか云ふ言ひ方を「嫌だ」「嫌いだ」と言ふ人は、間違つた言葉遣ひをしてゐる人に媚びてちやほやされたいと思つてゐる。

全ての人が自分の信ずる正しさを他人に押附けようとしてゐる。なのに、「『正しい××』と言う人は嫌いだ」とか言ふ人がいつぱいゐる。
――そんなに自分が嫌ひなら自殺したらどうかと思ふのだが、みんな自分は大好きなので自分が「正しい」のではない事にしたいらしい。

「正しいHTML」と云ふ言葉は「自由なHTML」とやらを信奉してゐる人々に隨分反感を買つた。
なんでみんな「正しい」事が嫌ひなんだらう。間違ひと言はれるのが嫌だからだ。

そんなに正しい事が嫌ひなら、なんでみんな自分の意見を「自由」に表明してゐるのか――自分の意見の「正しさを自由に」表明してゐる、と自覺してゐないからだ。そもそも自由とは、間違つた事だけをしていい自由ではない。正しい事をする自由もある。
と言ふより、正しい事・間違つた事はそんなにはつきりしてはゐない。皆が自分の信じた正しさを表明し、それを批判し合ふ事で、我々は少しづつ正しさに近附いて行く事が出來る。

今の人はあたまのをかしい人が多くて、何をするのも自由だと言ひながら、正しい事をしたり言つたりする自由だけは絶對に認めないとか平氣で宣言したりする。
「正しい事を言うと言いながら間違いだらけの事を言っているからおかしい」と指摘する人もゐる。なるほど、それが事實なら、こちらも謝罪するしかない。しかしさうなら、あなたは「正しい事を言ふ」事それ自體を認めてゐるのでないか。自分の態度を反省した方がいい。
或は「本当に正しい事を言えないのなら、正しい事を言うなんて言うな」なんて、をかしな言ひ方だ。

「正しい」と云ふ事は「ない」と主張する人は、その「正しいと云ふ事はない」と云ふ主張それ自體が自分の信ずる「正しい」事の主張である事實に氣附かなければならない。
自分が信ずる正しさを主張しないで生きてゐられる人間は、この世に一人も存在しない。そこで「正しさを主張する人間は胡散臭い」とか言ふのは、自分を棚に上げて他人を上から目線で見てゐるから暢氣に言へるだけの事でしかない。
自分の態度を反省したら、何んな人間も常に正しさを主張してゐる事實が認識できよう。逆に言へば、他人に「正しさを主張するな」とか言つてゐる人は、自分の事を一度も見詰めた事がない。
「他人を批判するな」とか言ふ人は、自分がその言葉を他人に投附けて、他人を批判してゐる事實に氣附いてゐない。

「正しさ」を言ふ輩は野嵜みたいに「他人を不快にするから許せない」と「正しさ」を否定する人は言ふ。しかし、その人は、自分が他人を不快にしてゐる事實を絶對に認めない(野嵜を不快にした事實があるのに)。快不快で物を語る人は、自分の不快感は正しく、他人の不快感は間違ひである、と簡單に斷定する。身勝手である。
野嵜が嫌ひだから野嵜の大好きな「正しい」とやらを否定してやる、と言ふ「正しい否定論者」の人もゐる。この手の人は、「正しい」と云ふ概念を一般に否定したいのでなく、單に野嵜が不愉快に思ふのが愉快で愉快でたまらないから「正しい」を否定してゐる。嫌がらせ目的である。
「正しい」と「言ふ人」が嫌ひだから「正しい」の「概念」を認めない、と言つてゐる「正しいを否定する人」は、「正しい」と云ふ概念が「ある」事を認めないのでなく、ただ「正しい」と言つてゐる人が嫌ひで、「俺が正しいと云ふ概念を認めないのはお前のせいだよw」と相手を侮辱して喜んでゐる。氣に入らない相手を脅すために、相手の支持する「正しい」ものを人質にとつてゐるわけだ。