闇黒日記?

にゃもち大いに語る

荒しをスルーしても何にもならない事

晝間ちよろちよろウェブを見てゐたら、某所で「闇黒日記が閉鎖されたのは荒しに應答したからだ」との解釋をブログに書いてゐる人がゐて吹いた。話が全然逆。
今年の初めに俺が前の闇黒日記をやめたのは、青方の中村とか喜六郎とか前田嘉則とか、さう云ふ話の通じない連中がつるみ始めて、何か馬鹿馬鹿しくなつたのと、あといろいろ面倒になつたの。

で、何でここで「2.0」とか馬鹿な事を言つて「再開」したかと言へば、それは、俺が默つたら、うちの掲示板を荒らした例の「義」が、俺の名前を騙つて餘所の掲示板を荒らしたりと大暴れを始めた上、このYahoo!ブログで俺の名前を騙つて、俺の文章を無斷轉載したり、他人を侮辱するやうな事を書いたりし始めたから。俺が默つたら荒しの「義」が暴れだしたの。

「荒しはスルーするとゐなくなる」と云ふ「ウェブの定説」に反して、逆に「スルーしてゐたら荒しが圖に乘つて暴れだした」と云ふ事實があつた訣だ。

世の中の人は、事實をありのまゝに受止めるより、自分が信じてゐる「定説」に事實が「一致してゐる」と「確認」して「安心」しようとする傾向がある。世の中で屡々いろんな話が正反對に解釋され、變な風に傳はつて行くのは、このせゐ。


默つてゐたらどんどん變な方向に話が進んで行きさうだつたんだよ。一時期2ちゃんねるでは「義」の流したデマがちゃねらーに信じられてゐた始末。荒しはスルーしては行けないのであつて、きちんと對決して行かなければならない。

大體、日本で「荒しはスルーすべき」と云ふ「定説」が定着したのは、そもそも日本人に「正しい」「正義」と云ふ概念に對する不感症的な傾向があるから。
「さはらぬ神に祟りなし」で、兔に角、自分に危害が及びさへしなければそれで良い、他人が何んなに困つてゐても知らん顏をして自分だけ助かればよい、下手に首を突込んで自分に火の粉が降りかかつて來たりするやうな羽目に陷るのは愚か者である――そんな事が日本人には當り前のやうに信じられてゐる。
「愚者の樂園」なんて言はれるけれども、日本のインターネットは「荒しの樂園」であつて、法に觸れさへしなければ何んなに惡い事をしても――と言ふより、ウェブで自分の正當性を主張してゐる人間を侮辱し、嘲笑し、叩きのめす、それは「良い事」と「一般に認められる」のだ。
荒しや粘着は、自分が匿名の蔭に隱れ、相手が正義を主張してゐる事を非難してゐさへすれば、誰からも非難されることが無いし、寧ろ自分逹のやつてゐる事がウェブの爲になる事だと主張出來る。日本では、「正義を主張するのは惡」であり、「この世に正義なんて存在しない」と嘯くのは「善」と看做される。日本人はこれほどまでに正義と云ふ事に鈍感なのだが、だからこそ荒しや粘着が惡事を働いても安泰なのであり、世の中に自分の正義を主張するのは奇矯な事と看做されるのである。が、それで良いのか。「良いのだ」と日本人の相當多くの人が信じてゐるらしいのだが、本當にそれで良いのか。正義の概念なんて信じない、ただ自分だけが安全に暮らせれば良い――しかしそこで日本人は常に「安樂に」と言出す。さうなると、「自分だけが良ければ良い」と云ふ發想に繋がるのは自然の話で、荒しや粘着がつけ込む隙が日本には矢鱈と多い。


と言ふより、「荒しはスルーせよ」と言つてゐる連中、矢鱈と粘着的で、ただただ侮辱的なだけの事を屡々言ふものである。要は自分逹が行動をし易くなるやうに、輿論を誘導しようとしてゐるのでないか。
日本の政治では、敵失を誘ひ出し、相手を陷れ、結果として自分の手に權力を掌握しようとするのが常道となつてゐる。日本人は、自分の主張の正しさを主張しないで、ただ、結果として自分の思ふ通りに世の中を動かして行ければ良いと考へる。納得づくで動くと言ふ事をせずに、ひたすら鬪爭によつて相手を打倒し、力でねぢ伏せようとする。
今の政治は――と言ふより、日本の政治は昔からさうで、兔に角最初に權力を手に入れて、それから自分の思つた通りに世の中を動かさうとする。政治家のやつてゐる事が甚だ醜い事になるゆゑんだが、ところが政治家の發想と同じ發想を、國民が一般的に持つてゐるのである。日本人は日本人同士で屡々對話できない。少くとも納得づくで話を通さうとしないし、しても出來ない事が極めて多い。それでゐて日本國民は政治家を馬鹿にするし政治に無茶な要求をする。何なのだらう。