闇黒日記?

にゃもち大いに語る

アンチは對話をしようとしない――獨善的なアンチの狂信

アンチと呼ばれる人間は、特定の人間を攻撃する事を目的とし、その爲に一つの攻撃指針を持つて、その指針に何時までも拘り續ける。

一つの目的を持ち、教義を定めて、その教義に從ふ――これは殆ど「宗教」だ。

アンチは、アンチとして行動してゐる時點で、一種の宗教にはまつてゐると言へる。彼等が他人を非難して「信者」と極附けてゐるにもかかはらず、實態はアンチの方こそが信者である。

彼等アンチは、或人間を「攻撃しなければならない」と思ひ詰めてゐる狂信者である。だから彼等は、常にドグマティックな態度をとり、一つの攻撃の仕方に拘り續ける。
アンチは攻撃對象としてゐる人間を、一方的に責め立てる。攻撃對象の人間からの反論を、アンチは決して認めない。どんな反論でも、無視するか、却下するか、するだけであつて、正當に檢討する姿勢を持たない。

アンチは決して對話しようとしない。ひたすら一方的に責め立てるだけだ。この時點で彼等が公正を缺いた、客觀性を持たない人間である事は明かだ。さう云ふアンチが他人を責め立てたところで、惡いのはアンチに決つてゐるとしか誰も思はない。それなのにアンチは自分が良い事をしてゐると信じ込んでゐる。アンチの獨善性は明かである。


アンチが攻撃對象の反論を、「言ひ訣」と極附けたり、用語を攻撃して意圖を歪曲したりする戰術は、全て彼等アンチがドグマティックで狂信的である「新興宗教の信者」もどきの存在である事が原因であり、個別に反撃しても意味は無い。
狂信者の攻撃には、個別的に論理的に反論しても、反撃にならない。何んなに正しい反論をしても、狂信者であるアンチには通じない。彼等は「攻撃しなければならない」と云ふただ一つの教義に全てを捧げた人間であり、さう云ふ人間には如何なる反論も通じない。
アンチの人間とは絶對に議論が成立しない。アンチは議論を拒絶し、一方的に責め立てる事のみを望むからだ。


だが、さう云ふ人間が存在してゐる事は、議論を前提とした民主主義・自由主義の社會にとつての脅威である。今の日本國は、民主主義と自由主義を採用してをり、それを認めざるを得ない以上、我々は飽くまで議論を認めなければならないし、對話をしなければならない。
對話を拒絶し、議論を拒絶すると云ふ事は、自由主義や民主主義を拒絶するのと同義――だが、實際、喜六郎は、自由主義や民主主義を憎惡してゐるらしいのだ。
ところが彼が匿名で好き放題に物を言へてゐるのは、自由主義と民主主義の恩惠である。