闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「歴史的假名遣は明治政府のでつち上げ」と云ふ嘘

白石良夫の『かなづかい入門』が出た事もあり(それ以前から割とポピュラーなものではあつたが)、「歴史的假名遣は明治政府がでつち上げたもので、百年も歴史がない」と云ふ「歴史的假名遣批判」が行はれるやうになつた。最うそれだけで「歴史的假名遣は死んだ」と思ひ込んで、居丈高に正かな派を嘲る人が出て來る始末だが――「理窟は附けようと思へば幾らでも附けられる」と云ふだけの事でしかない。

現實に、歴史的假名遣は「あつた」のだから仕方がない。そして、今でも、私が「ここ」で書いてゐるのだし、「ある」のである。

紫式部清少納言藤原定家吉田兼好鴨長明飯尾宗祇松尾芭蕉小林一茶本居宣長、契沖、式亭三馬、……、これらの人々の用ゐた假名遣と、夏目漱石森鴎外、與謝野晶子、芥川龍之介、或は、小林秀雄保田與重郎福田恆存松原正、……、これらの人々の用ゐた(用ゐてゐる)假名遣と、實際にどれほどの違ひがあると言ふのか。

「彼ら」の書いた文章の假名遣ひと、現代の「我々」(私を除く)が書く文章の假名遣ひとを比較して見れば良い。明かに「彼ら」の假名遣ひは歴史的假名遣であり、「我々」の假名遣ひは「現代仮名遣」である。ならば、歴史的假名遣は「あつた」のだし、「ある」のだ。


白石氏やその他の「歴史的假名遣は明治政府のでつち上げ」説を唱へる人々は、尤もらしく理窟を言つてゐるに過ぎない。しかし、「明治政府がでつち上げた」と云ふのは、實際にはなかつた事で、ただ、「あれば歴史的假名遣を否定するのに都合が良い」から、理論として採用されたに過ぎない。即ち、「明治政府によるでつち上げ」説こそでつち上げだつたと云ふ訣だ。

白石氏の場合、文部官僚だつたから、自分の先達が實施した政策を何處までも肯定し、自分逹の功績を誇らねばならない、と云ふ動機がある。ところが、官僚でも何でもない一般人が、官僚の自畫自讚を無批判に受容れ、彼等を賞讃してゐる。
何うも斯うした「保守主義」は、昨今の「右傾化」の流れの中で、左翼の生殘り戰術として、汎く採用されつつあるやうな印象がある。「戰後民主主義社會」が左翼の支配的な社會であるならば、さう云ふ社會を「保守」しようとする態度を取る事で左翼が「右翼化」して實質的に生殘らうとしてゐるものと看做す事が出來る。
しかし、右か、左か、が、問題なのではない。誤つた思想が誤を認めず、ただ自己正當化の爲に、敵を貶めて、自らを免責しようと劃策してゐる、と云ふのが問題なのだ。

誤つた思想が、嘗ては革新思想が流行してゐたから革新の假面を被り、今は保守思想が流行してゐるから保守の假面を被つて――流行の思想の流れに棹さす事で、自己を正義と言張つてゐる。内容ではなく形式でもつて自己の正當性を「アピール」してゐる。こんなやり方をしてゐては、世の中は良くならない。