闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「擬似科学批判」としての正かな派の立場

「現代仮名遣」は樣々な問題を抱へてゐる。が、その最大の問題は、批判が不可能である、と云ふ事だ。「これは正しいのだから、国民は黙って従わなければならないのである」と云ふ發想から、「現代仮名遣」は「正書法」として定められてゐる。
それに對して、歴史的假名遣は、科學的である。明治政府は、國語の基準を定めるのに、「新しい国語」を創作する事をせず、既存の契沖の復古假名遣を採用した。それは近代的なものであり、近代的な國家を築く基礎として、採用するにふさはしかつたからである。
けれども、歴史的假名遣は、再三の訂正が行はれた。それを「アンチ歴史的仮名遣い」の人々は「歴史的仮名遣いの欠陥」と解釋し、非難する。けれども、批判が可能であり、訂正が可能であるのは、歴史的假名遣が科學的だからである。

科學的であるものは、科學的である限り、反證可能性を持つてゐる。「現代仮名遣」は反證可能性を持たない。最初に述べたやうに「正書法だから正しい」と「定められてゐる」からである。
さうした「現代仮名遣」を批判して、我々正かな派は繰返し批判を行つてゐる。
そこでは、「現代仮名遣」を批判するのみならず、歴史的假名遣批判も當然ながら行つてゐる。その過程で、「歴史的假名遣は明治政府の創作である」とする非難に遭遇する事になつた。
これに對して、先づ正かな派は反論を試みたが、同時に正かな派は「明治政府が採用した固定的な規範としての歴史的假名遣」と云ふ用語の存在する事に、何うしても氣附かされる事となつた。

一方、正かな派は、「現代仮名遣」を「新仮名遣い」と稱する事に對して反論を試み、そこで存在する「旧仮名遣い」なるものについて、反省を強ひられた。ところが、「旧仮名遣い」なるものの存在は――寧ろ曖昧である事が自覺された。「現代仮名遣」以前の「仮名遣い」を「旧仮名遣い」と言ふ、と云ふ定義では、我々が現に使用してゐる假名遣を指して言ふ事は不可能であるが、同時に、具體的な規範として考へる事も不可能であつた。
「旧かな」――一體それは、具體的にどのやうなものであり得るのだらうか。

例へば、源氏物語の假名遣、宣長の假名遣――さう云ふものが、國文學では研究對象となる。そして、「明治政府が採用した歴史的假名遣と云ふ固定的な一つの規範」と比較して、「源氏物語の假名遣」には「異るものがある」、「宣長の假名遣」には「誤がある」、と評される。
のみならず、徒然草やら僞紫田舎源氏やら、浮世風呂でも何でも良い、さう云つたものに見られる「かなづかひ」は、「歴史的假名遣」と區別される許りではない、兔に角全部異るのである。さう言つたものを全て「旧かな」と一纏めに稱する事は可能か。
――可能だとしたら、それは「現代仮名遣」以前と云ふ亂暴な括りにせざるをえないが、では、現代人が書くものが「現代仮名遣」と異る、「昔風」の假名遣を用ゐたとしたら、それは何なのだらうか。「旧かな」と稱する事は、定義からして不可能である。それを「可能だ」としたところに、例へば松永氏の誤がある。

過去の或種の假名遣・「現代仮名遣」以前(或は、一部はそれ以後も)用ゐられて來た或種のかなづかひについて、我々は總稱を提案しなければならなかつた。「歴史的假名遣」については「明治政府」以後のものとされるのだから、別の名稱が必要である。「旧仮名遣い」は「現代も用ゐられる」のであるならば當然不可能である。
我々正かな派は、改めて、我々自身が用ゐてゐるかなづかひについて、反省が必要となつた。そこでは我々は、我々が「より正しい書き方」を求めてゐる事實を發見した――否、既に福田恆存に發見されてゐたのである。
實は、徒然草でも方丈記でも、浮世風呂でも、宗祇や芭蕉の發句でも、全て書き手は、それが具體的にどのやうなものかについて確信が無いまゝに、しかしそれでも「正しい書き方がある」と云ふ確信を持つて、それぞれ獨自の書き方をしてゐた。
さうした「正しい書き方への確信」或は「信仰」に基いた「日本語を書く態度」――これこそが日本人の傳統的な「かなづかひ」に對する態度であつたと言ふ事が出來る。斯うした心理的な考察を基に、我々は使用者が「正しさ」の存在を信ずるがゆゑの「かなづかひ」と云ふ意味で、「正かなづかひ」と稱したのであつた。
即ち、自分自身の正しさを振りかざすとか誇るとか、そんな事とは全く關係なく、ただひたすら内容に基づいて「正しさを志向する假名遣」として「正かなづかひ」と言つたのである。

然るに、さうした正かな派の立場を一切斟酌する事なく、「正かな」の「正」と云ふ字に拘つて、その言葉を用ゐる人間を「正しさを振りかざすもの」と勝手に極附けて、「傲慢だ」「威張るな」と非難する人々が出現した。
斯うした解釋は、圍碁の用語で言ふ「勝手讀み」であるが、誤讀である。誤讀に基いた批判は誤つた批判でしかない。正かな派は、彼らの誤つた批判を誤つた批判だと指摘した。ところが、それを「正しさを振りかざす証拠」だと、彼らアンチは極附けた。アンチは、理解を拒んだのだ。
或は、アンチは、正かな派の主張を理解出來なかつた。それは、自分が知るものと全く異る價値觀の提示だつたからだ。しかし、ただ自分が理解できないからと言つて、即座にその價値觀を否定する事は許されない。檢討を經た上で、態度を決定する事は、當然である。ところが、アンチはさうした檢討を最初から「する必要はない」と極附けた。餘りにも自分の「常識」と懸離れてゐたからである。
しかし、「常識と懸離れてゐる」事が、即座に誤であると言ふ事は出來ない。アインシュタインの宇宙物理學にしても、量子力學にしても、常識とは懸離れてゐるが、それだけを理由に誤と極附ける事は出來ない。
そして、實際、正かなづかひは科學的なのである。「現代仮名遣」は非科學的なのであるが、それに比べれば正かなづかひは遙かに科學的である。勿論、その科學とは、人文科學であるが、人文科學だから全て非論理的で良いと云ふ話にはならない、人文科學にも人文科學なりの方法論があるのであり、論理がある。正かなづかひは一つの観念であるが、人文科學の方法によつて十分檢討が可能である。「現代仮名遣」は、絶對的に、批判が不可能である。

科學的な立場を非難する人々は――國語以外の領域では案外常識的であるものである。しかし、國語となると途端に非科學的で、自己中心的な、勝手な態度を、さう云つた人々も平氣でとり始める。
それは、彼らが國語を舐め切つてゐるからである。だからこそ、好い加減で・非科學的な方法で、國語を弄る事を認め、或はその成果物としての「現代仮名遣」を受容れてしまふ。そして、より科學的な正かなづかひを敵視し、正かなづかひの立場から「現代仮名遣」を批判する態度を憎惡してしまふ。それは、擬似科學批判を憎惡する、「トンデモの人」「電波を受信してゐる人」の態度と何ら變りがない。松永氏が「正かな派」を罵倒する態度は、擬似科學批判を罵倒するのと全く同じであり、「トンデモ」の人の態度と全く同じである。ところが、「トンデモ」の人でも自分は十分科學的で論理的だと、常に確信してゐるものである。ところがさう云ふ人が持出す論理は、大抵異常で、論者の「絶對的確信」に基いたものであり、認め難い。松永氏の「ブログ」には、主觀的な價値判斷の文句が大量に現れる。松永氏が「トンデモの人」である明かな證據である。
が、松永氏に限らない。多くの日本人が、國語に對しては「トンデモ」な態度を平然と取り、正かな派の態度を「擬似科學」だと簡單に斷じて安心してしまつてゐるのである。ならば「現代仮名遣」は科學的か――正かな派がさう疑問を呈すると「科学は関係ない」と言出すのも彼らである。目茶苦茶もいいところだが、「トンデモ」の人にその論理の目茶苦茶である所以を説いても、理解して貰へない。

正かな派の主張は、假名遣ひが科學的であるべき事、そして國語を舐めるなと云ふ事の、二つである。



追記 コメント不可にした