闇黒日記?

にゃもち大いに語る

川島武宣『「科学としての法律学」とその発展』(岩波書店)について(三)

(承前)

著者(川島氏)は、法律が政府權力による強制に基づいて行はれる社會秩序の維持に必要な存在であり、その目的を實現する爲に必要な學問として法律學(實用法學)を考へてゐる。

この法律學では、價値判斷の基準となる社會的な價値體系を明かにする事、そして具體的に立法・裁判における價値判斷の具體的な内容を明かにする事が必要となる。
裁判において裁判官は、法が豫定する價値體系に基づいて個別の事例について判斷を下す。その價値體系それ自體が、そもそも固定的であると言ふ事は出來ず、同時代の中でも對立する價値觀が存在するし、また時代と共に價値觀は變化する。

そして、それらの客觀的な分析を通して、法的な價値判斷と社會的な價値體系との關係を明かにし、また價値判斷同士の關係を明かにしなければならない。法の制定者の意圖と、制定された法の機能的な意味とは區別され、我々は客觀的に法を評價して良い。その爲には、現代の社會に於る價値觀がどのやうなものとなつてゐるか、現實に法が如何に運用されてゐるか、そしてその運用がどれだけ秩序だつたものとなつてゐるか、が、明かにならなければならない。
從來は、既存の法を絶對に「正しいもの」と看做し、それを解釋し、論理的に操作する事で全ての問題に當らうとする態度が存在し、非現實的・非實效的な「概念法學」として非難されて來た。それに對して、法的價値判斷の前提としての社會學的な分析を行ふ「社會學的法律學」と云ふものがあるけれども、現代の法律學はさうした方向に進化・發展して行かなければならない。

實際には「ことば的技術」も必要ではあるが、社會に影響を與へる實踐行動として必要であるのであり、それが時として社會的に承認されるやうなものであつても、一つの價値體系の權威を絶對のものと看做し、それに基く解釋を主張するならば、科學ではなく、ドグマ的な學問(教義學)である。法律解釋論には價値判斷と云ふ實踐行動としての存在意義はある。
けれども、「どの價値體系を選擇すべきか」ではなく、現實に存在する價値體系や價値觀に關する事實の問題については、答が「個人の信念や願望によつてでなく、諸々の經驗的事實によつて檢證しえられる」ものであり、さうした問題に關する研究は科學の名に價する。
が、さうした客觀的・社會的な價値觀の研究を通して、立法や裁判を律し、社會を良くして行くのに法律學は貢献し得るのでないか。

著者は、既存の法律の解釋のみに終止する概念法學に批判的であるが、一方で、「ことば的技術」についての研究は矢張り必要である事を言つてゐる。法律の表す内容の明確化は必要であり、また、判例に基いて個々の法的價値判斷に基づいて一般的な法的價値判斷のあり方を分析・體系化する事の必要を説いてゐる。
法律と法的價値判斷の明確化・體系化は、立法・裁判を律するのに役立つ。政治權力の恣意的な法律の運用を防ぐのに有用であるし、また將來の法的價値判斷にも利用できる。

以上は「科学としての法律学」の要約。
著者の記述は、この時點では必ずしも整理されてゐるとは言ひ難く、意外と要約は困難だつた。發表された時代が時代であり、數多くの問題提起がなされる必要があつたものと思はれる。可なりの混亂がある文章で、讀み辛いが、ただ「法律は科學たらねばならない」と云ふ著者の考へは一貫してゐる。

引續き「その發展」である論文が本書には收録されてゐる。内容は以下の通り。

「法的判斷の「客觀性」――法律解釈への不信――」
「市民的実用法学とその科学性――実用法学と法社会学との架橋――」
判例判決例――民事裁判に焦点をおいて――」
「「法的推論」の基礎知識――「法的構成」による法的判断の構造と機能――」
法律学の外観と真実――「權利主張の争い」に焦点をおいて――」
「争いと法律――新しい法律学と法学教育のために――」
民法学と民事訴訟――私の民法学研究がたどった道」

もともと人文科學にのみ興味があるので、法學に手を出す積りはなかつたが、今囘の「論爭」をきつかけに、法學の「あるべき姿」を論じた川島氏の「哲學書」たる本書に觸れられたのは收穫だつたと思ふ。
ガハハ氏にはさんざん嘲笑されたが、社會科學にしても――そして暇になつたからいろいろ調べたのだが――人文科學にしても、矢張り近代以降のそれらは合理的・科學的の方向に進化してゐると思はれるのだ。
法學者の川島氏が「科學志向」である事は言ふまでもないが、文法研究においても研究者は「科學志向」であり「合理主義」的である事は言へると思ふ。
この邊のあんまり面白みのないテーマをしばらく「やらざるを得ない」のはうんざりだけれども、乘りかけた船なので仕方なく繼續。