闇黒日記?

にゃもち大いに語る

内容と態度の混同

「価値観を客観的に論ずるのは不可能だ、なぜなら価値観は主観的だからだ」——斯う云ふ割切つた事を言ふ理系の人がゐるのだけれども、これが間違ひである事を我々人文科学系の人間は全員知つてゐる(本来ならさうである)。

この種の「単純明快な理屈」は反論が極めて難しい。少くとも、この種の理屈を言ふ理系の人は、反論を受付けない。単純明快だから正しいと確信してしまふからだ。けれども、価値観を客観的に論ずるのが人文科学だ。人文科学が学問として成立つてゐる以上、この種の単純な理屈は「尤もらしく見える」だけで誤である事は明かだ。

注意すべきは、例へば歴史学——歴史が、所謂科学か否か、と云ふ問題で、単純に「科学である」と言ふのが不可能な事だ。もちろん、歴史は、事実に基づいて定められ、判断される。その点を強調して実証的な学問である事を強く主張する立場が存在した。けれども、その事実は既に人間の主観を通して選別された事実であり、事実と事実の因果関係を見定めるのは人間の主観である。よつて、歴史は自然科学的な意味での科学ではあり得ない。
が、それでも、歴史は人文科学として扱はれなければならない。主観によりながら、歴史は個人の嗜好・趣味で恣意的に定められてはならないのである。歴史学的には、より正しい歴史と言ふものは、より真実に近い歴史でなければならないのであり、「誰かにとつて都合のよい歴史」のやうなものであつてはならない。
この点で、歴史学なる学問については、議論が繰返されてゐるのだが、しかし、その目的が飽くまで正しい歴史の認識である事は、忘れられてはならない。

文学もまた、決して恣意的な読みの許される学問ではない。寧ろ、文章を扱ふだけに、より慎重な文章の読みが要求される(その辺の事が、理系の人には案外わからないらしい)。文章を読取るのにも技術があるのであつて、そこでは正確に意味を読取る事が要求される。文章は好きなやうに読んでは行けないのだ。

文章を正確に読取る訓練は、小学校・中学校・高校で既になされてゐなければならない。だが、理系重視の現在の日本の教育制度の中で国語の授業は大変おろそかにされ、しかもそこでは感性の教育なんて事が言はれてしまつて、文章を読む技術はまるで教へられない(最近も新書でその種の主張をした本が出た)。だから理系の人でも、自分で注意してその辺の訓練を自分でしてゐない人は、まるで文章が読めないし、言葉で論理を説明する事もできなくなる——だから不用意に、冒頭で掲げたやうな安直な理屈を信じてしまふ事になる。

主観もまた客観的に扱へるのであり、それは必要な技術として認められてゐるのだが、さうした技術こそ訓練が必要である。が、それだけに、知らない人は全然知らないと云ふ事になつてしまつてゐる。本当に困つた事だと思ふ。